私は自分の恋愛指向をはっきりとはさせていない。
もしかしたらストレートかもしれないし、ひょっとしたらバイセクシュアルかもしれない。多分違うとは思うけれど、レズビアンやアセクシャルであるかもしれない。
あえて恋愛指向を明言せず心を開いておく。これは、すべての人を愛せる可能性を残しておきたいという私なりの願いによるものなのだ。

今まで生きてきて、心惹かれる人には女性も男性も含めて何人も出会ってきたけれど、正直なところ恋愛的な「好き」なのかまたはそれ以外の「好き」なのかはよく分からなかった。そもそも、そんな言葉上の差異は私にとっては意味をなさなかったという感じ。心が動かされれば、それで充分その感情を認めることができた。

女の子に心を惹かれ、インターネットで検索を繰り返した

ある1人の女の子にはだいぶ熱を上げた。あれはいつだったか、確か小学校高学年の時だったように思う。とても可愛くて優しくて、皆のアイドルのような子だった。自然に「好き」になった。明日はもっと話したいと毎日のように思ったし、自然に目で追うようになったし、嬉しいことに段々話す機会も持つことができるようになった。

ただ、思いは自然に外に漏れ出てしまうようで、微笑ましく思った友達や先生には若干からかわれた。別に気にする程度の話でもなかったけれど、あれ、これって私は周りの女の子とは少し違う「好き」を感じるタイプなのかな?というようなことをうっすらと感じ、その頃はやっと性的少数者のような言葉が一般的になりだした頃だったので、自分でも色々考えてしまうところはあった。毎日ぐるぐると考え、こんなこと誰かに相談しようもないのでインターネット上の情報を巡る日々。

はっきりしたのは、私はあの子のことが好きだという揺るぎない気持ち

でも、散々思い悩んだ結果ほのかに見いだせたのは、やっぱり私はあの子のことが好きであることに変わりはないということ。そしてそれは性別の問題で見て見ぬふりをするにはあまりに強く、価値のある感情であるということだった。そして、そうではない可能性もあるのに自分がストレートだと思い込もうと苦しむことは、同じ世界に生きている残り多くの人々を愛せる可能性を失ってしまうのだとも気が付いた。逆に固定観念にとらわれずに心をやわらかく保って、目の前の誰かに対する心の動きや揺れを大切にすることでその何倍もの人数、つまり地球上のほぼすべての人を愛せる可能性を持つことができるのならば、私はそうしたいと強く感じた。

ちなみに、結局その子とは卒業まで良い友人関係を保つことができた。これは私にとっては大満足の結果だったので、これで良かったように思う。

私は性別じゃなくて、自分の心に素直に向き合うことを大切にしたい

好意は制御できるものではない。誰かと言葉を交わし、交流を持つというただそれだけで、心にひそかに去来するようなものなのだから、自分でそれに制限をかけたり規制を設けたりするのはとてももったいないことだと個人的には思う。目の前の人と自分の性別にとらわれず、素直に自分の心の動きに瞬間瞬間向き合うことが大切なんじゃないかな、と今日も私は考えている。