偶然、久々に連絡を取った男友達。「Instagramのアカウントを新しく作ったので、よければフォローして欲しい」とのこと。断る理由もなく彼のアカウントを検索し、投稿を見た私は、気付けばその瞬間、彼のフォローを外していた。

彼のInstagramの投稿は、彼女との幸せそうな写真で溢れていた。反射的にフォローを外した私。私はこの時、一体どんな顔をしていたのだろうか。

単刀直入にいうと、私は恋愛に関するSNSの投稿を見ることが苦手…

彼はただの男友達で、なんなら友達というより、むしろ異性の知り合い程度の間柄である。いわゆる顔見知り。彼への特別な感情が皆無であることは明白だ。そんな彼のSNSフォローを、どうして私はやめたのか。

単刀直入に申し上げる。私は、恋人たちが投稿する、自身の恋人に関するSNSの投稿を見ることが苦手だ。デートで見た景色、2人で笑い合っている姿。そんな投稿を見ると、なんともいえない不安感に襲われる。なんの感情かは、はっきりとわからない、ただ、それが正の感情ではないことだけは、はっきりとわかっていた。

ある人は、それはただの嫉妬心だろうと笑うかもしれない。しかし、おかしなことに私は、自分に大好きで大切な恋人がいて、その幸せを自覚しているときでさえ、同じような感情を抱く。

恋愛や恋人は100%有限だから、SNSに恋人との私情を投稿しない

こんな私だから、当然自分の恋人との投稿も一切しない。それは、ただ投稿をしないという選択なのではなく、私の中では、あえて匂わせまいと自分のSNSの世界に恋人との私情を持ち込ませまいとする、“意地”に近いものだとと思う。

以前お付き合いした彼は、自分の投稿を一切しない彼女を見て不安に思ったのだろう。それとなく不安を漏らされた私は、彼の写真を24時間で消えるストーリーに投稿した。彼だけを写し、自分の気配を消したもの。そして、放っておけばいずれ消えるはずのストーリーを、数時間後わざわざ手動で削除した。

あるドラマの中で、結ばれない恋をしている女性が「自分は新しいペンを手に入れたその時から、そのペンのインクが切れる日のことを考えてしまう」と言った。私の異常なほどの“意地”のルーツを、そのまま具現化したような言葉だった。

私の中で、恋愛や恋人という存在は、100%有限なのだ。

何も考えず写真を撮り、心穏やかに投稿することのできる、友達や景色、家族の写真。しかし、恋人は自分のもとからいつか必ず消えてしまうもの。年を重ね心が傷つくにつれ、恋人との写真を撮ること自体も、自然と避けるようになっていた。

別れた後、一人涙を流しながら投稿を消す姿を想像する。その恐れや悲しみから、友達や家族など他のものとは別にカテゴリー分けし、いつ消えてもいいよう隅に追いやる。とりわけSNSでは、それが他人に可視化されるからこそ、まるでアレルギーの如く過剰反応していた。

恋愛を有限だと恐れるのではなく、共に過ごせる時間を愛せますように

私が他人の恋人に関する投稿を見て抱く感情は「いつかいなくなるのに」という無常観への切なさと虚しさなのだと思う。

しかし、その根底にあるのはきっと、かっこいい彼氏でも、素敵な夜景でも、美味しそうな手作りご飯でもない、自分にとって“ワレモノ”である恋愛を、恋人との時間を、その瞬間感じるまま、幸せだと周りに表現できることへの羨ましさ、そして、いつか大切なものを失った時、きっと受け入れられないと自覚している、私の怖がりで、幼くて、いじけた心なのかもしれない。

私にとって、恋愛が有限なことにきっと変わりはないだろう。今までも、これからも、きっと私は恋に泣かされ、傷ついていく。

だからこそ、そんな私に必要なのは終わりがないことではなく、終わりを恐れないことなんだと思う。恋愛は有限だと恐れ、突き放すのではなく、有限だからこそ、今その瞬間、共に過ごせる時間まるごと愛す。

そんな私にいつか、なれますように。