よっちゃんの顔は、ゆっくりと私の顔になっていった。幼い頃、他人の顔が自分の顔に見える時期があった。友人の顔も家族の顔も、じっと見ているうちにウニョウニョと顔のパーツの形を変え、やがて私の顔になる。
「みんな私と同じ顔をしてるんだ」そう思っていた。そのことにどこか安心感を覚え、積極的に相手の顔を見るようにした。そこにはいつも私の顔があった。
鏡で見ている自分の顔と、他人が見ている私の顔は違う
自分の顔と他人の顔は違うと、理解できるようになった頃、修学旅行で撮った写真に写る自分の顔を見てひどくショックを受けた。そこに写る私は、私が知っている私の顔ではなかった。これが私の顔? まさか、そんなはずない。必死で動揺を隠したけれど、写真を見た友人の反応は、それが本当の私だということを物語っていて、ショックは増幅していった。
自分の顔と他人の顔が違うことは理解できても、自分が見ている自分の顔と他人が見ている自分の顔が違うことは知らなかった。これが他人が見ている私の顔なのだと知った途端に、過去のあらゆる振る舞いが、自分のイメージ通りに行えていなかったのではないかという不安で頭がいっぱいになった。
そして、私は他人の目を気にするようになった。写真に写ることを避け、できるだけ自分の顔と向き合わないことで心の平穏を保つようにした。あれは私ではなかった。いつまでもそう信じたがった。
「私の顔」について人から言われる言葉が、うるさくて消えない不安
大人は、子どもの私に「笑ってる方が可愛い」と言った。友人は、私の写真を見て「盛れてるね」と言った。バイト先の先輩は、笑う私に「笑えばいいと思ってんじゃねえぞ」と言った。親は、私の顔を見て「あんた太った?」と言った。うるさくて、私は私の顔について考えるのがさらに嫌になっていった。
そして、私は私の顔がどんなものか、分からないまま大人になった。鏡に写る私の顔は思い描いた通りの顔をするけれど、本当の顔は違うことを知っている。他人に見られるとき、カメラを向けられるとき、容姿の話になるとき、不安はいつもひっそりと付いて回った。
鏡の前で上下左右に首を動かし、あらゆる方向から自分の顔を見てみた。左より右の方がエラがひっこんでいて、目は一重で、左目の方が大きくて、右目の方が高い位置にある。鼻が丸い。前歯が出ている。鼻の下は少し長めで、ホクロは約25個。アゴから首までの距離が短い気がする。肌の色にはムラがあって、顎にはニキビができている。眉毛は普通。狭いおでこに昔怪我をした跡。いくら見ても、私は自分の顔をはっきりと捉えることができなかった。
私が見る私の顔と、他人が見る私の顔が違う。そのズレを埋めたくて、何度もそうして鏡を見た。自分が見ている顔を否定することはとても難しかった。あれは私の顔ではないのに。本当の私の顔はここにあるのに。この鏡に写る顔、これが私の顔なのに。そう抗いたい気持ちを押さえ込み、他人の目になることに徹した。
私が欲しいのは、たしかにこれは「私の顔」だと思える安心だけ
もし、他人が鏡に写る私を見たとしても、そこにはいつも通りの私がいるだけだということも分かっていた。これは私ではなくて、紛れもなく私。私が見ているものは一体何なのだろう。私は、私の何を見ているのだろう。私は、私の見ているものと他人の見ているものどちらを信じたら良いのだろう。分からなくて、混乱していくばかりだった。
私が欲しいのは、たしかにこれは私の顔だと思える安心だけだった。よっちゃんの顔が、私の顔だと思えた頃にあった安心。私がまだ私の顔を知らなかった頃の安心。それがどうしても欲しかった。私の顔が他人の目によって、自分の中に形成されていくことを拒み、私の顔を他人から取り戻したかった。
鏡を見ると、自分の目で見ることはできない私の顔がそこにある。私に私の顔が分かる日は来ない。私はそのことに気づき始めている。そして今日も、不安はひっそりと付いて回る。