私は、北関東のとある町で育った。世間で田舎と呼ばれるイメージにふさわしい、緑豊かな田園風景があるわけではない。
けれど、大きく伸びる国道や、中学生が少し背伸びした遊び場といえば唯一のショッピングセンターぐらいしかない私の地元は、私にとって“田舎”そのものであった。
禁じられたわけじゃないけど、私は好きなものを言う勇気がなかった
小さい頃から、両親は私に教養の大切さを学ばせるために、数多くの本や映画に触れる機会をつくってくれた。また、母親の趣味であるミュージカル鑑賞を通して東京へ出かけることも多かった。
こうした環境の中で、私は地元の同世代の友達より、幾分か贅沢な生活を過していたように思う。そして、私はそれらを嫌々押し付けられたものと感じることもなく、楽しみの対象として純粋に享受していた。
ミュージカルは大好きだった。母親の小さな車の中で、私はお気に入りの演目のCDを流し、劇中の歌をこれでもかというほど大きく、感情をぶつけるかのように歌った。そして、誰に見せるわけでもなく、一人で憧れの舞台俳優の動きやダンスを真似して、満足感を得ていた。
けれど、こうした私の環境と周りの環境は、全くといっていいほど噛み合わなかった。でも、同世代の多くの友達の遊び場がゲームセンターやバッティングセンターであるのに対し、私だけ「ミュージカルが好き」だなんて言えなかった。
もちろん、誰かから禁じられたわけではない。けれど、私は私の小さな世界を安全に保つために何を言ってはいけないのかを、自然と嗅ぎ取っていたようだった。それに、友達をつくらないで学校生活を送れるほどの勇気を持ち合わせているわけでもなかった。
中学生の時の私は、周りに合わせる「努力」をして過ごしていた
中学に入ってから、そんな私自身に対する嫌悪感が、私の体の底からもくもくと湧き上がるようになっていった。地区区分によって無慈悲に入学を決められた公立中学校の中で、私は小学校のとき以上に周りに合わせるようになった。
「ミュージカルが好き」なんて、口が裂けても言えなかった。言ったら最後、私がそのクラスはおろか中学校において、自分の居場所を失くすだろうことは目に見えていた。田舎に住む当時の私にとって、平和な学校生活は最優先に守るべきものだった。
そして私は、中学校3年間を中途半端に、周りに合わないと分かっていながらも合わせる努力をして過ごすしかなかった。けれど、それを誰にも打ち明けることができなかった。もし言ってしまったら最後、自分自身がボロボロとこぼれて崩れてゆくような思いがしたのだ。ポロポロとボロボロと…。
あの頃の私とはもう違うけど、今でも私の中にある「しこり」
高校は他県の進学校に入学し、3年間の充実した学校生活を送った。そこでは、自分の好きなものを当たり前のように、自然と話せるようになった。もちろん、ミュージカルのことも。大学でもそうだ。周りに合わせることなんて、いつの間にか忘れられた習慣となっていた。
私は決して、小学校から中学校までの友達が嫌いだったわけでない。ただ、周りに合わせるために好きなものを正直に「好き」と言えない自分が本当に嫌いだった。たまらなく、嫌いだった。嫌いなのに、私はそうして自分を犠牲にすることによって、周りから自分を守った。いや、“守った気”になっていた。
地元の喫茶店で、大学4年になった私は、今このエッセイを書いている。けれど私はたまに、3年間過ごした中学校の前を横切り、小学校からの家への帰り道を通るたびに、あの頃の私を思い出さずにはいられない。
その時大切にできなかったもう一人の私が、今でも私の心を締めつける。