私は、人にジャッジされたり「あなたはこういう人だよね」と決めつけられるのが不快だ。
例えば、十何年も前の高校時代、学校に行くのが辛くて悩んでいた時のことを「あの時はアンタ超病んでたよね~」と、当時の同級生に言われた時。
または、家族の中で決まったキャラクター(短気、泣き虫、わがまま等)があるとして、いくらその後変わる努力をしていても、いつまでもそのイメージは更新されない時。
私の嫌いな私を、誰にも掘り起されたくない
そのような出来事に対して「昔の思い出を懐かしむ、気心知れた間柄だもんね♪」と、微笑ましく受け入れられるほどに成熟できていない私は、「いつまでそのこと言うねんお前に過去にイラつかされたことは黙ってやってんだぞ」という本音を抑え込みながら、「イヤ~その節は大変ご迷惑おかけしました~」と、笑顔を貼り付けて応えてはみている。
おそらく、自分にとっては、まだ心からは笑いたくない過去だからだろう。
また、誰よりもそんな過去や自分を嫌っているから、触れられたくないのもあるかも知れない。
本当は、いつも明るく笑顔で、自分にも他人にも優しく、周りに心配や迷惑をかけない、いわゆる「できた」人間であり続けたかったっていうのもある。
(いやいや、そんな幼稚園児いたらもう現世の修行いらんだろって感じだが。)
とにかく私は、私の嫌いな私を掘り起こされることが怖くて、不快で、大嫌いなのだ。
他人をジャッジしてしまうことへの罪悪感
しかし、とても厄介なことに、他人に対しては「この人はこういう人間だ」というジャッジを下してしまう自分もいる。
最近、それに気づかされた出来事が起こったので、この場を借りて考えてみたい。
まず、ある友人との関係について。学生時代を共に過ごした彼女は、当初クラスメイトとの軋轢が多く、よく悩んでいた。
卒業後、新しい進路や仕事の先々でも、人間関係に悩む彼女は、久しぶりの電話やランチの時も、常に誰かや何かの愚痴をこぼしており、心なしか人相も険しくなっていた。
いくら自分に向けられた敵意でないと言えど、関わるたびにマイナスの言葉のシャワーを浴び、エネルギーが消耗するような感覚を覚えた私は、だんだんと彼女と会うことが憂鬱になっていき、現在は少し距離を置いている。
もしかしたら彼女は「エナジーバンパイア」(相手のエネルギーを奪って自分のエネルギーに変えようとする人)なのかも知れない。
そうだとしたら、自分の身を守るためにも、適度な距離を保っていくのが得策ではあると思う。
しかし一方で「あの子は、いつも愚痴や文句が多いよな」と思ってしまう自分の心に、矛盾や罪悪感を覚えてもいる。
なぜなら彼女は、十年近くの付き合いの中で、多くの素晴らしい時間を私に与えてくれたことも事実だからだ。
私が辛かった時に相談に乗ってくれたり、サプライズで誕生日をお祝いしてくれたこともある。それらひとつひとつを振り返ると、彼女を「エナジーバンパイアかも知れない」と思うことの罪悪感で胸の奥がチリっとする。
それはきっと、自分がされて嫌な「この人はこういう人」というレッテル貼りの作業を、彼女に対しては行ってしまう矛盾への罪悪感にも通じている気がする。
そして、自分が彼女に愚痴をこぼした過去だってあるのに、自分が「彼女からされて嫌だったこと」の方が記憶に残っている、何とも都合の良い私の大脳皮質にも呆れてしまう。
変わろうとした努力を認められたいから、他人のことも認めたいが…
このような葛藤は、家族との関係性の中でも生じている。
読者の方々の中も、「しっかり者のお姉ちゃん」「甘えん坊の末っ子」「昔から泣き虫でやりにくい子」など、家族や親戚の中でのキャラクター設定はないだろうか。
私の場合は、待望の長子なおかつ初孫として生まれたのだが、蓋を開けるとまあ随分と育てにくい子どもだったようで、アラサーの今でも必ず「あんたが一番育てにくかった」と、両親にも祖父母にも言われる始末だ。
しかし、学校を始めとする外の世界で、いろいろな人との出会いや別れを通じて、徐々に社会性を育み、現在は一社会人として必死に日々を生きている身としては、「まだそれ言うか」と言いたい気持ちもある。
おそらく、人によっては「ま~たそんな昔のこと言って~(笑)」「ハイハイその節はお世話になりました~♪」とサラッと軽快に流せることだろう。
現に私も、余裕のあるオトナのフリをして、サラッと湿度の低い自分を演じている。
そもそも「愚妻」だとか「愚息」だとか、身内を貶めて謙遜する言葉が存在するこの国では、軽口を叩き合えることが、結びつきや愛情の強さを表している側面もあるかもしれない。
だが、「いかにあんたが大変で、皆んなに心配や迷惑をかけてきたか」を繰り返し聞かされることで、その後の努力や実績を認められない虚しさを感じる日もある。
だから私は、自分がされて嫌だからこそ、他者と向き合う時は、その人の過去や一面だけで判断してはいけない、と自分に課している。
にもかかわらず、前述した友人の件のように、自分にとって不快と感じる相手に対しては「この人はこういう人だから」とキャラクター設定をしてしまう。
あ~。まじでホコとタテ~。