あなたは、目隠しをして自分を包み隠さず披露する快感を、すでに体験されているだろうか。とにかくとても、充実感があって気持ちがいい。空が晴れれば、一体何が太陽を遮っていたのかに気づくことができる。私の曇りは、目隠しをして視界を遮ることでむしろ晴れた。

目隠しで隠される世界は・・・

哲学的な問いを立て、それについて対話をする、というワークショップの形式、いわゆる哲学対話というものがある。私は大学時代、その手法を研究しながら進行役を行ってきたのだが、ある時、先輩が持ち込んだ企画が、目隠しをして哲学対話を行う、というものだった。

意図としては、問いを立て、物事の本質を問うコミュニケーションが軸となる哲学対話で、時として障壁となる“誰の意見か”という性質を可能な限り取り除いてみたい、というものであった。声でおよその判別はついてしまうものの、目隠しをすることで、誰が話した意見かということを明確に決定づける手段は断たれることになる。数日後には、研究室に目隠しをした学生たちがぞろぞろと誘導されて入室し、円になって座る異様な光景があった。

隣の人が誰なのか、その人とどのくらいの距離が開いているのか、何もわからない。暗闇の中で、誰かの意見に耳を傾ける。空調の音などが、やけにはっきりと聞こえる気がした。視界が遮られるとは、そうして、外の世界が見えなくなり自分が研ぎ澄まされること、そう、自分の発言する時が訪れるその時までは、思っていた。

晴れ間を覆っていたのは、容姿に対する自分の視線ということに気づいた

端的に言えば、とても軽やかだった。私がどういった形を持った人物であるか、ということから切り離されて、意見だけが真摯に取り扱われる状況は、私が世に示したい私自身を、雑味なく相手に手渡せているという充実感があった。

変なところに目線がいってはいないだろうか、さっきから表情が暗くはないだろうか、手をもじもじさせているのを変だと思われないだろうか、などということによる心の曇りがない。曇りが消えた分、話す内容や聞く意見に意識を集中させることができ、楽しい・気分がいい、ということに心が感じやすくなっていく。
そして私は、晴れ間を覆っていたのは、容姿に対する自分の視線であったということに気づいた。

他者からの視線を装った自意識に首を絞められることがある

日頃から研究室に容姿や発言者に対する先述のような視線や陰口はない。心の中で増幅させていた声は、自分が自分自身に向けている刃だ。
私たちは、日頃自分自身よりも圧倒的に他者のことを見ている時間の方が長いというのに、他者からの視線を装った自意識に首を絞められることがある。
鏡だって時として真実は映さない。

鏡が話しかけてくる世界観は白雪姫で世に浸透しているが、それが実際に起きていること、鏡に映る自分自身が、己に向ける視線や言葉であると自覚している人はいかばかりだろうか。継母が鏡に語りかけ鏡が返す言葉は、すべて継母が心の中で自分に向けた言葉だ。「白雪姫は美しい、その嫉妬するまでの美しさは詳細に理解している、でも大丈夫、自分は世界で一番美しい、大丈夫、美しいから…」と。私も毎朝毎晩、鏡が話しかけてくる、「怒ったような目つきをして人当たりが悪いよ、可愛げのない口元だね、なんかだらしない体になってきたよ」過去に心なく笑われた容姿に対する冗談や、メディアによって形作られた、“不細工をわきまえた振る舞い”といった記憶がさらにその刃をつよくつよく押し付ける。

目隠しはそのすべてを解き放った。他者に向ける視線を遮っているはずなのに、自分の目で見ているのは、永遠にその目で直視できない自分自身なのだ。