私が初めてHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)の存在を知ったのは、2年前に受けた大学の講義だった。HSPは簡単にいうと、感受性が強く繊細な気質を持った人のことをいうらしい。
講義内容は、HSPのチェック項目に自分が何個当てはまるのかというものだった。
例えば、以下の項目などがある。
・忙しくなると、猛烈に一人になりたくなる
・ 落ち込んでいる友人が、側にいると自分も落ち込む
・不意に現れたり、声をかけられたりするとビクッとする
特徴としては、痛みや大きな音、まぶしい光が苦手で、敏感すぎて不安度が高く、疲れやすいのだそう。
私は、HSPだった。
ここ最近「HSP」というワードを聞く機会が増えたと思う
項目にチェックをつけながら、逆にHSPじゃない人の方が少数派なのでは? と感じたが、HSPは人口の約2割といわれている。とはいっても、日本人の約2割はB型で、AB型に到っては約1割だと考えれば、HSPは別に珍しくもない。
自分がHSPだと分かったあとも、私は特に変わらなかった。そして、その講義から半年ほど経つと、HSPというワードを聞く機会が増え、2年経った今、HSPブーム(?)が到来しているらしい。
HSPの本は飛ぶように売れ、メディアでも取り上げられるようになり、SNSのプロフィールにHSPであることを記入する人もよく見かけるほど、HSPは世間に受け入れられた。
私は、知り合いに誘われて「HSPの交流会」に参加した
そんなある日、知り合いと数年ぶりに偶然再会を果たした。彼は昔と比べて、別人のように生き生きとしていた。話を聞くと、HSPの交流会の主催者として活動に勤しんでいるらしく、彼自身もHSPだと言う。
彼は私がHSPか否か、以前やったチェクシートのような質問を幾つかしてきたので、私はなんの気なしに「私もHSPらしい」と話した。すると、彼は急に目を輝かせ、交流会に来るように促してきた。HSPというただ一つの共通点があるだけで、彼は私との距離がグッと近づいたと思ったらしい。
宗教団体のかのように、同じ対象を信仰しているというだけで全てが分かり合えていると思い合い、逆に信仰が違う人とは全てが分かり合えないと思っている人のように見えた。びっくりして、ほんの少し怖かった。
だって、私たち昔は合わない、苦手なタイプだった。でも、そんな過去も数年のブランクもお構いなしに親密になれる力がHSPにあるのか?
人といると疲れがちな私は、プライベートで人脈を広げる機会を遠ざけていて、HSP交流会も気が進まなかった。しかし「みんなHSPだから絶対仲良くなれる」とゴリ押しされて、一度だけ行く運びになった。
交流会で感じたのは、共感性が高い人が多いゆえなのか共感をとても求められること、まるで一度も人を傷つけた経験がないと思っているように、“傷ついた”話しかしない人がかなりいたことだ。
よくよく昔、彼と馬が合わなかった理由を思い出したら“傷ついた”をバリア兼、剣にして周りが気を遣うのに疲労したからだ。結局、交流会に参加したのはその一度切りだった。
私はHSPを他者と繋がる切符や、自己アピールなどに使いたくない
私は、帰宅してからこの違和感を噛み砕きたくて、どうしてHSPがここまで普及したのかを考えてみた。まず、HSPは病気でも障害でもなく、あくまでも気質なので誰でも自称できる。字面もなんだかスタイリッシュだ。
そして、最大のポイントは敏感ゆえに生きづらいというだけでなく、特別な感性を生まれつき持っているからこその苦しみを謳っているからではないか。また、HSPに関する記事には芸術肌等、自分が才能に恵まれているような気持ちの良い言葉が並べられている。あとは、どこかに属することで、人は安心するからだろう。
これはHSPに限った話ではなく、性別でも、血液型でも、ラベリングされることに窮屈さを覚える人がいるように、逆に安心感を覚える人もいる。
HSPも更に細分化ができるらしい。このあたりが、私が積極的にHSPを自称する気になれない理由かもしれない。もちろん、自分がHSPだと知ることで得られることもあるはずだ。HSPという概念は、自己理解のためや、どう対処するのが有効かを知るために使えるだろう。
ただ、私はHSPを他者と繋がる切符や(繋がりたい人は繋がればいいと思うけれど、私のように馴れ合うのが得意じゃない人もいる)、“感受性豊かな私”といった自己アピール、“傷つきました”の免罪符には利用しないでいたい。
急に話変わるけど、HSPとかSPIとかHIS…めっちゃ混ざっちゃう。