私のおしりは、大きく、少し垂れて、ふっくらとした丸みを帯びている。いや「そうであるのだろう」と言った方が正しい。

というのも、私は生まれてこの方、鏡でそれを見ようとする度に目を細めてしまう癖があり、じっくりと向かい合ったことがないからだ。はっきり言ってしまえば、私は自分のおしりがとてつもなく恐い。

私のからだの他の部分、例えば顔の形や手の指の長さは、私自身それほど気にしていない。

しかし、私のおしりだけは、それが“私のもの”であると意識させられる日常の中で、私を苦しくさせる。

「自分のおしり」を愛することも、目を向けることさえできなかった

小学生の頃まで、私は別段太っていたわけではなかった。けれど中学からは、部活内での人間関係のもつれや思春期特有の自意識との葛藤から、まるで「私はこんなに苦しんでいるんだ」と周りに訴えんばかりに、食べ物に手を伸ばし続けた。

そして、高校に入学する頃までには、私は“自分のおしり”と奇妙な関係を持つことになっていた。

同級生や先輩、後輩、テレビや雑誌に出ている芸能人、漫画の登場人物、車の窓から見える登下校中の小さな小学生、焼肉屋のスッラとした40代半ばの店員。私はすべての女性(この場合はセックスとしての女性)の小さな、つつましいおしりに対し、羨ましいと感じた。

それは、決して性的な欲情ではなかった。ただ、私のからだを迸る、熱くドロドロとした憧れの感情だけがあった。そして同時に、私自身がとてもさびしい存在に思えてしょうがなかった。“私のおしり”は、“私だけのもの”であって、“私のものでしか”あり得ないのに、私は、私のおしりを愛することはおろか、目を向けることさえできない。そう思うと、本当にさびしくってしょうがなかった。

自分のおしりを「愛するために」努力したけど、変わらなかった…

また、私は典型的な“洋なし体型”(この呼び方も正直好きではない)で、太った時でさえも、トップスやアウターなどはMサイズで通ってきた。だから、バイトで制服を支給される時などはMサイズ一式のものが手渡された。

更衣室に入ると、必ず先に制服のシャツをスッと着て、安堵感を味わう。そして、その次にパンツを穿こうとすると、ちょうどおしりのところで布がムッとつっかえる。その度に、私は恥ずかしさや惨めさやら、とにかく泣きたくなった。

しかし、Lサイズを頼みに行くだけの余裕も持ち合わせているわけではなく、お腹やおしりの穴をぐっと、いつでもこれ以上ないほどに引き締めてチャックを上げ、ベルトをして更衣室を出て行った。

もちろん、私は自分のおしりを愛そうとするため、すなわち小さなおしりにするために、食事改善や運動にも取り組んできた。そのおかげで、中学の時に増えた体重は徐々に減っていった。けれど、おしりだけは変わらずに、私のからだの最古参のメンバーであった。

自信を持ちたいけど、私が「自分のおしり」を好きになれないんだ

最近では、“ボディ・ポジティブ運動”の盛り上がりによって、多様なサイズの体型を受容する環境が形成されつつある。プラスサイズと呼ばれる、多くのモデルや芸能人たちが訴えかける言葉はとても力強く、私に自信を持つように背中をぐいと押してくる。

私はそうして彼女たちに励まされる度に、私のおしりを愛すよう努めようと思う。けれど、その思いはすぐにどこかで沈んでしまうのだ。なぜなら、その度に私は、「他人の目線のせいでこの大きなおしりが嫌いなのではない。紛れもない私が、それを嫌でしょうがないのだ」という行き場のない思いを、紛れもない私自身によって突きつけられてしまうからだ。

これからもずっと、私はこの大きなおしりと付き合っていかなければならないだろう。

もう一度言う。「私は自分のおしりが嫌いだ」。けれど、きっと私はいつだって、“私のおしり”を好きになりたいのだ。少なくとも、そう思いたい。