どうしても苦手なことは、誰しもあると思う。でも、もし「苦手」なことが同時に「好き」なことでもあったら、どうだろう。
そんな矛盾を抱えていた話をしてみたい。わたしが「苦手」で「好き」だった、文章にまつわる話だ。

面白いけれど困る。世界に色があふれる「共感覚」 

文章を読むことが、「困難だ」と感じるようになったのは、高校に上がったときだった。
扱う文章が長文であるほど理解するのが難しくなり、ゆっくり読まないと内容が頭に入ってこなくなった。文章読解が必要な国語や英語は、意味を理解しないまま授業が進んでしまうことが多かった。

読んでも文章がすぐに理解できないのには理由がいくつかあったが、その一つが「共感覚が強いため」だった。
共感覚は、一つの感覚が別の感覚を引き起こす現象のこと。音を聞いて一定の色に見える場合などがそうだといわれる。

わたしの場合は、文字や音などが色で認識される。例えば、アルファベットにはそれぞれの文字に特有の色がついていて、「succeed」という単語は、グリーンサラダ(それも、クルトンと薄切りパプリカ載せ)みたいな色彩に見える。

この共感覚のために、実生活の中で困ったことも起こる。
あるとき、目的地に着いたと思って電車を降りたら、目的の駅と全く違う駅だった。驚いて確認すると、場所も名前も違うのに、「色」がとてもよく似た駅なので間違えて認識していたとわかった。

また最近でも、ネパールとミャンマーをずっと読み間違えていて、どうしてかと思ったら、どちらも似た赤紫をしていたからだとわかった。
現在はこれでもだいぶマシになったので、面白い感覚だなあと感じることもできるが、高校時代は自分でも制御できないくらい、世界に色があふれていて、疲れてしまうこともあった。

本が読めないなら、読めるようになればいい

さて、高校で進路を決める段階になったときのこと、わたしはある決断をした。それは、文学部を志望する、という決断だった。

まともに文章を読めない人間が、文系、しかも文章と切っても切れない縁にある文学部を選んだのは、なぜなのかと思われるかもしれない。
それは、小さい頃、絵本を読むのが好きで、「わたしは本が好きに違いない」という思いがずっとあったためだった。高校時代はろくに本を読んでおらず、国語の教科書の数ページすら、うーんうーんとうなりながら向かい合っている状況だったのに、激しすぎる思い込み。それも、文学部以外の進路は頭に浮かばないというくらい強固なものだった。

本が読めないなら、読めるようになればいいじゃない。と、中世のフランス貴族みたいな発想をして、わたしは文学部進学を決意し、意識的に本を読むよう習慣づけた。

苦手だからって、あきらめなくて本当によかった

初めに読んだのは、ページ数の少ない、エンタメ性の強い小説だった。物語を追いかけてページをめくるのは久しぶりだった。集中力は必要だけど、本を読むのは楽しい。ページ数は少なかったが、読破できたとき、「なんだ、自分、読めるじゃん」と満ち足りた気分になった。

さらに一冊、もう一冊と、自分をおだてて読んでいく。途中、つまらない本にぶち当たると、面白く最後まで読めそうな別の本へ切り替えた。読み切ることで達成感につながった。
そうして読書の幅を広げていき、文学部に進路が確定する頃、文庫本で三百何十ページある、夏目漱石の『こころ』を読み切ることができた。時間はかかったものの、読み終えたときは「これで文学部に進める」と自信を持てた。

文学部に進学してからは、さらにいろんな本を読もうと思って、図書館に入り浸り、文章に触れる日々を過ごした。そうして現在、共感覚は残っているが、文章を読むことはだいぶできるようになった。

今思うのは、やっぱり、わたしは本が好きだし、文章が好きなのだということだ。思い込みは正しかった。「どう考えたって苦手」という、その一念であきらめなくてよかった、おかしいくらいに一途な気持ちを持っていてよかった、と本当に思う。

困難なことでも、「好き」だと思い込んでいいのだ。
そして、好きなものに向かう途中に、たとえ何か葛藤があったとしても、わたしは自分に、「大丈夫、突き進め」、そう声をかけることにしている。