日本人の平均身長は、1978~1979年をピークに縮み続けているらしい。そんな記事を読んだ。見出しはこう。「身長の高い遺伝子が自然淘汰されている?!」
非常に身に覚えのある話だったので、引きずられるように最後まで読んでしまった。とても興味深い、好奇心をそそられる良い記事だった。出典もきちんと示してあり、信頼のおける内容だ。
もしわたしが平均身長より15㎝も高い目線で生活している日本人女性でなかったなら、それ以外特に感想はなかったかもしれない。
いわゆる「高身長女子」を名乗れる程度の身長がある。171㎝。現代の日本人男性の平均身長と変わらない。これはどういう世界かというと、たとえば満員電車に乗った時、たいていの人間の頭を眺めることのできる世界。
息も吸いやすいし、赤の他人の口臭を嗅ぐのは、地下鉄の駅のホームから改札に向かうまでの階段を上るときくらい。こうして当たり障りのない利点を連ねれば、いいじゃん、うらやましい~、生活しやすそう~とか言われて、会話の相手のためにもっと盛り上がる話題を探さねばならなくなる。
会話なんていうのは表向きのエンタメ、要は演出。実態は、日本社会における高身長の女が共通して享受できるメリットは、こんな風な非常に物理的なレベルでしかあり得ないと思う。今回はそれについて書きたい。
幼少期、思春期 同世代と同じ鏡に立つのが苦痛だった
わたし達のだいたいが経験してきている言葉の一群がある。まず幼少期。「デカい」「巨人」と同世代の男の子(本人たちの素直な感想だったり、ちょっとした嫉妬というか出来心の意地悪だったりする)から耳にタコやイカが生えてくるほど言われる。若干デリカシーのない大人からも繰り返し言われる。近所のおばちゃんとかに「大きいねぇ」としみじみといった感じで言われる。
思春期になるとみんなが色気づいてくる頃合い。よっぽど華奢な体格だったり、顔立ちが小さかったりといわゆる「本当のモデル体型」の高身長女子はここからは我々とは別の道を歩んでいく。
たいていの高身長の女は普通の体型である。当たり前だが。それに、思春期はまだ体の成長段階であるが、その未完成さをぱっと見「平均身長の女子を3次元的に1.5等倍したよう」に感じる人たちもいて、それをそのまま言われているのを聞いた暁には、それはもう落ち込む。というか言われていないとしてもそう思われているのではないか、と戦々恐々と縮こまってしまう女はかつていた。わたしだ。男女問わず、同世代の人と同じ鏡の前に立つのが嫌だった。
身長180㎝の恋人ができた時、世界が変わった気がした
時を現在に戻そう。わたしには恋人がいる。彼は身長が180㎝ある。道路で向かいから自転車が来たときには腕を引き寄せて回避を促してくれるし、家にいるときはわたしを膝の上に乗せようとするし、デートでIKEAに行ったときは人が行き来する広い空間の真ん中で堂々と腰に手を回してくる。電車やバスに乗ってお互いにそれぞれのつり革を掴むとき、わたしには彼の脳天が見えない。
「もしかして、これは平均身長の女性の生活を1.5倍比で体験できているのか…?」そんなことを最近思っている。散々デカいデカいと言われて、学校でも縮こまって、自然と恋愛対象から外れ・外され、まぁでも一生こんなもんでしょ、と思っていた世界がひっくり返る。こんなことがあるんだなぁと一人感慨にふけっていると、恋人は少し首を傾け、わたしと視線を合わせてくる。
LGBTQコミュニティに寛容さを求め、心が揺らいだことも
自分がトランスジェンダーなのかどうか、悩んでいた時期がある。「自分がそうだ、と思ったらそうなのだ」という性定義の世界では、振れ幅が許されるからこその偏った執着もまた生まれやすいと個人的には感じた。
わたしは危うく、「自分が異性と恋愛を楽しむ可能性」を完全に捨て去ってしまうところだった。周りと比較して、どうしてもつらかったのだと思う。どうせ望めないのなら、と自暴自棄になりセフレやソフレばかり作っていた時期もある。
しかし結局今に至るまで、一度も女の子とは寝ていない。それでも自分が一般的なヘテロであると考えたくなかったのは、LGBTQの優しさと寛容さに一種の癒しを求めていた可能性がある。結論としては、性の多様性や揺れ動きにも共感できるヘテロであるというのは完全に予想外の未来だった。
容姿をネタにされる経験は、よくもわるくもアイデンティティに結びついてしまう
自分を例に出すのは何ともな心地がするが、こんな風に、至極普通体型で身長があるわたし達は、個人差はあるにせよ恋愛に苦手意識をもつ体験を経ている人が多いような気がする。
それはどうしてかと考えてみると、冒頭の記事のような内容に最終的には行き当たってしまう。(繰り返しになるが、知的好奇心をそそる良記事だと思うし、決して内容や書き方について批判するべき点はなく、非難するべき表現も特にないと思う。むしろ、読み手の思考を巡らせてくれる意味で素晴らしい。)
周りから体格というわかりやすいネタで容姿について言及される経験、その繰り返しがアイデンティティに与える影響は無視できないものだし、「高身長が好きな男もいるよー」などという完全にハズした慰めの言葉を貰いまくると、恋愛そのものに背を向けたくなるのは当然の流れのような気もしてくる。
はっきりさせよう。『日本社会において、平均よりも背が高すぎる遺伝子をもつ女は、生存に不利なバイアスを相殺するために各々独自の工夫が要るし、わざわざそのためだけの試行錯誤を必要としながら生きている』ということを。
その努力が性定義や恋愛観やダイエットや筋トレや勉強やSNSの発信など、すぐ思いつくようなものに限らない、その他どんな手段でもあり得るということを。