「デブ」「ブス」
私が大学1年生のとき、1年間だけ所属していたとあるサークルの男性陣の中で、いつしかこの2つの言葉が私の二大形容詞になっていた。

葉桜が顔を出し、少しずつ学校生活に慣れ始めた頃からそれは始まった。男性の先輩・同期問わず、暇さえあればそう罵られた。先輩後輩という立場も相まって、何も言えず私はとにかく愛想笑いをするしかなかった。

他人の「容姿」を馬鹿にすることは、異常なことだって気付かなかった

別に自分がどう形容されようが、正直どうでもよかった。良くも悪くも自分の外見に執着しないため(おしゃれは大好きだけど)、顔や体型を罵られたところで、落ち込むこともない。私は傍から見たら“デブ”で、“ブス”な醜い容姿の女なのだと素直に受け取った。

それから1年が過ぎた頃、私は学業との兼ね合いの関係で別のサークルに移った。前のサークルに所属していた時は、気づかなかったことだけれど、男性が女性に向かって「ブス」「デブ」と言い続けるのは異常なことらしい。「言うほうがおかしいよ」と、新しいサークルの友人に言われて初めて学んだ。あのまま前のサークルにとどまって罵声を浴び続けていたら、これが異常だと気づけなかったのかと思うとゾッとした。

罵声を浴びていたのが、大学1年生のたったの1年間のみであったこと。容姿を罵られたところで、さほど落ち込む性格ではなかったこと。これらのおかげか、その後の私も特に自分の容姿に悲観することもなく、のびのびとした大学生活を送っていた。

容姿イジリをされたら、誉め言葉も「素直」に受け入れられなくなる…

しかし、罵声の後遺症は、意外なところにあった。社交辞令かもしれないが、ありがたいことに初対面の方に時折「かわいい」「女の子らしい」という言葉をかけていただけることがある。

ありがたいはずなのに、どうしても信じられなかった。だって、私は“デブ”で“ブス”な醜い女のはずなのに、“かわいい”、“女#の子らしい”と形容されては、矛盾してしまうではないか。

罵声を浴びても落ち込まないし、悲観もしない。ただ、1年間かけて浴びせられた罵声が、プロフィールのように脳内に焼き付いてしまったのだ。砕けた言い方をすると「私はブスでデブだから…はぁ」というより「私は、19XX年生まれで、血液型はXX型。長所はXXで、短所はブスでデブなところです」というイメージ。たった1年のあの出来事で、脳内がここまで書き換えられてしまうのかという恐ろしさを感じた。

容姿イジリがどんなふうに作用するかは、人それぞれであると思う。「ブス」と言われたことに悲観しておしゃれを楽しめなくなる、あるいは自分が嫌いになってしまう方がむしろ多数派なんじゃないかと思う。

「容姿イジリ」の後遺症を自覚して、自分のペースで向き合っていく

だから「ブス」「デブ」と言われても悲観しない私なら、イジリを受けても大丈夫だと思っていた。けれど、あの1年間を通して、自分を醜い容姿の女としか思えなくなった。

そして、容姿に対する褒め言葉を素直に受け止められない罪悪感に苛まれた。ついでに、周囲を困らせるほどの自虐癖もついた。これが、私が浴び続けた罵声の後遺症だ。いずれにしろ、容姿イジリは怖い。今のところ、この後遺症は克服できていない。うまく付き合っていくしかないのだと思う。

読み手が希望を持てるようなハッピーエンドなエッセイは書けなかったけれど、後遺症をきちんと自覚し、自分のペースで向き合うことを決めた私は、少なくともバッドエンドは回避できたのだと思う。ゆっくり、自分を責めずに、向き合うことにしよう。

最後に、あのとき私に罵声を浴びせ続けてきた方々へ。
罵声の後遺症、マジヤバイですよ。