私は、毛について改めて考えた時、毛と視線には深い繋がりがあると思った。
それは、私が毛を剃ろうと思ったきっかけが視線を意識しはじめたときということ、また、今も剃り続けている理由が視線にあるということから言えるだろう。

わたしの初めて毛を意識した瞬間。初めて毛を処理した瞬間。

私が「毛」というものを意識しはじめたのは小学生の水泳の授業からだ。
体育座りをしたとき、ふと自分の腕の毛や足の毛が嫌に気になったのを覚えている。プールの水のせいで、ぺったりと肌にくっついている毛。その毛を見て無性に切りたくなったのだ。そしてその日家に帰ってから自分の机に置いてあったはさみを使って毛を切った。まず片方の足の毛を切って、切ってない方の足との違いにテンションが上がり、そのまま見えるところの毛は全部切った。

これがわたしの初めて毛を意識した瞬間であり、初めて毛を処理した瞬間だったのだ。
それからは定期的にはさみで毛を切ったが、それだと短い毛がぴょんぴょんしたし服を着た時チクチクしたので、ドラッグストアに行った時にカミソリを買って剃ってみたり、カミソリにもいろんな種類があるのを知って試したり、試行錯誤で毛と戦った。

わたしの毛の処理のきっかけは、自分の視線だった

大人になってから、あの時の行為は肌に良くないことだったなと気づくこともあるけど、それなら正しい知識を子供のうちから教えて欲しかったなあと思う。子供の頃に何気なく試した毛穴を根こそぎとる毛穴パックや、にきびを潰す行為、毛を抜く行為など今考えると後悔ばかりだ。
こんな感じでわたしの毛の処理のきっかけは、自分の視線だったのである。

私はこうやってよく毛と視線に心を乱され生きている

ただ、きっかけは自分の視線であったが、今は自分の視線はたいして気にしなくなった。伸びっぱなしでもまあいっかと思うし、剃るのには結構気力がいるから剃らない方が楽だ。
そうして毛を剃ることの理由は自分の視線から他人の視線へと移ったのである。
今じゃ毛を剃っていることはマナーのようなものだし、毛を剃ってないと思われるのが辛い。
毛を剃るタイミングは他人が見るかどうかに左右されるようになった。
例えば、夏は露出が増えるから頻繁に剃るが、冬はほとんど露出がないからたまにしか剃らない。
夏と冬で毛への危機感も変わるのである。
ただ、毛への危機感がなくなる冬でも、急に人に会う予定ができたり、肌を見せる瞬間が来た時はゾッとする。必死に頭の中でいつ剃ったか考えたり、どこか剃るタイミングがないか悩んだり、会った後に生えている毛を見つけて落ち込んだりもよくあることだ。
私はこうやってよく毛と視線に心を乱され生きている。
一体いつまで毛との葛藤を続けていくのか。
この葛藤が終わる時、それは私が他人の視線を気にしなくなるか、脱毛するかのどちらかであるだろう。どちらにしても、それはきっと遠い未来であることはなんとなく感じている。

明日も毛を剃るか剃らないか悩んでみようかな

毛、貴方はどんな思いで生えてくるの?
こんなに切るわたしのことをどう思ってるの?
私が毛と会話出来る人間なら1番最初にこのふたつをきく。
そしてどうにか薄く細くなってもらうか、もう生えてこないようできないか頼み込むだろう。
私は毛と会話出来る人間ではないので無理なはなしだが、どうしても思ってしまう。
毛は一体どんなことを考えて私と戦っているのだろうか。
まあ、毛に対してたくさん文句を言ってしまったけど、この毛との戦いの中で生まれたものもいくつかある。

例えば、高校時代、友達と仲良くなったきっかけが着替えの時に毛の悩みで盛り上がったことだったり、試行錯誤した結果いろんな知識をつけることができたことだったり、毛で悩む経験が今の私に繋がっている。
そう考えると、毛との戦いはそんなに悪いものでもないかもしれないし、もし急に毛と戦わなくていいですよと言われたら少し寂しさも感じるだろう。
実は、毛との戦いって結構面白い?
そんな考えも浮かんできた。
毛の方はどう思ってるか分からないけど、私はこの、結構面白くもある毛との戦いを、これからも続けていくつもりだ。
毛を剃るか剃らないか、また明日も悩んでみようかな。