私は何者なのだろうか。
誰もが1度はこの問いを考えたことがあるではないだろうか。私もその一人だ。
私は日本で生まれ、日本で育った生粋の日本人だ。しかし、思考は欧米よりで「和の心」などとは縁遠い生活をしている。また、「日本人なんだから○○しなさい」といわれるたびに「日本人ってなんだろう」と思う。
私には中国人の友達がいる。彼女は中国で生まれ、日本で育ち、今はアメリカで暮らしている。国籍は中国だが、母語は日本語だと彼女は私に教えてくれた。
彼女と仲が深まるにつれ、中国に興味を持ち、大学では中国言語文化を専攻している。中国に関心を持ったことで、世界にも目を向けるようになった。
そして、大学1年生の夏、カナダに留学に行くことにした。カナダでは、日本よりも様々なバックグラウンドを持っている人が生活している。その中で生活しているうちに、彼らのアイデンティティはなんなのか気になった。同時に、私は何者なのだろうかという疑問がふつふつと湧き上がってきた。
私のアイデンティティは、場に応じて変容できること
私は、日本で古くから続く年功序列制や終身雇用制が理解できない。また、周囲の空気を読んで行動するといったことも苦手で、孤立したり、周りの人から遠巻きにされることもあった。そのような経験から、「私は本当に日本人なのだろうか」という疑問が出てきたのだ。
私は少なくとも一般によく言われる典型的な日本人ではない。
私はどんなアイデンティティを持って生きていけばよいのだろうか。そう悩んでいるとき、アメリカに住む友達が私にこう言ってくれた。
「あなたは自己をきちんと持っている。やりたいこと、やりたくないことだけでなく、自分ならではの正しいことと悪いことの基準も持っている。でも、場に合わせて自分を変えることができる。それはすごいことだと思う。」
私はその時はっとした。今まで自分は典型的な日本人でないために、自分が日本人であるというアイデンティティを失ってしまっていた。しかし、典型的な日本人にあてはまらないことこそが私のアイデンティティなのだと気づかされた。
それ以降、私はその国の言葉ごとにニックネームを持つことにしている。そうすることで、その国の人になれるような気がするからだ。
「私は何者か」その問いに明確な答えなどない。私はカメレオンのように、その場に応じて変容できる、そんな人間なのだ。自分を理解したら、生きるのが楽しくなった。今度はどんな自分を見つけられるだろうか。
これからもいろいろな人に出会い、いろいろな場面に遭遇し、いろいろな自分を見つけていきたい。
変容する自分。そんな自分を私は誇りに思っている。