決めていることがある。
“死ぬまでに世界中にあるすべてのゴッホの『ひまわり』をみること”。
それはつまり、成し遂げるまで生き続けなければならないということだ。
どんなに辛いことがあっても、絵を追い求める人生を諦めてはいけないということだ。
便利で有益なはずの「メディア」に、奪われた光があるという事実
2020年は、常識が180°反転した1年だった。ありえないと思われていたことが身の回りで実際に起こった。カタイ職場であんなに進まなかったテレワークが義務化され、絶対に必要だったハンコも客先訪問も絶滅しつつある。
人間関係でいえば、そもそも接触ができないことにより、誘いを断っても「ゆとりの弊害」とか「思わせぶりだ」とか言われない。惰性の二次会はなくなってしまえば寂しいような気もするが、もう行きたくはない。
それでも変わらないものがある。メディアだ。
この深刻で特殊な社会情勢のもと、いろんな出来事が起こった。嬉しいこと、悲しいこと、そしてどちらでもない現実。私は、昼休みにそれらの話題をインターネットメディアで知った。いつでもどこでも流行をキャッチアップできる、それでもって世間様との会話も成立、なんて簡単な世界なんだろう。
しかし、どうにも看過できないことがある。その便利で有益なはずのメディアに、奪われた光があるという事実だ。今年の初夏、誰もが知っているリアリティ番組の出演者が22歳の若さで亡くなった。あまりにセンセーショナルで、メディアの演出表現がこれまで以上に問題視されることとなった。
ほとんどすべてが、当事者の方々にしか分からないことだけれど、痛切な事件に強く感化された部外者が、メディアのあり方を議論することは許されると信じたい。紙面と地上波以外が情報源として確立された日常において、ヒト・モノのつながりにおいて、もはやオフラインの世界はありえないでしょう。
誰だって関係者になりうる、いや既にもうなっているかもしれぬ世の中なのです。主体者意識をもって、メディアと共存する道を探す必要がある。
真実を知る権利がある。表現をする自由がある。公共の福祉だとか難しいことはわからないけれど、なんとか読み手と書き手に妥協点は見つからないものか。そこで私考えまして、双方になくなればいいのにを提言してみせましょう。
メディアと「共存」するために、読み手と書き手に守ってほしいこと
まず読み手については、ゴシップを鵜呑みにし横流しするのはナンセンスでいやだ。ワイドショーのネタを真に受けてSNSを悪用するなんてもってのほか。メディアを利用して発言できる個人にも、メディア同様の責任が生じるのでないの。ことの重大さを思うと“authority”の横文字が、“著者”と“権力者”のどちらにも和訳できることも納得だと思いつくまま文字にする。
そして、書き手については経緯をごまかし、事実を切り取っていたずらに扇動すること、話題性のためだけにでっちあげるのは、絶対にやめてほしい。文責を重んじ、もしも過ちがあったならば、まず傷つけた人に心から謝ってほしい。
月並みな主張であるけれど、読み手と書き手に守ってほしいのはシンプルなことなのです。そして、これはのうのうと生きている自分への戒めでもある。
白と黒を柔らかく混ぜ合わせる筆が「メディア」であってほしい
私に断罪する権利はない。そして、あなたにもない。
立ち位置を明らかにしないことが正しいという意味ではなく、誰かのための余白を残してあげる思いやりが、お互いにほしい。分かりやすいコントラストは目を引くけれど、時には優しい中間色も必要のように思う。
願わくは、白と黒を柔らかく混ぜ合わせる筆が、メディアであってほしいというところなのです。このグレーに限っては、ひまわりと背景色の対照美を模索した画家にも、特徴よりも寛容を優先することを大目にみていただけないかしら。
あなただけのひまわりが、今この瞬間にも世界のどこかで花開き待っている。
どんな決断であったとしても、あなた自身が決めたことならば間違いはない。
ただしその決断によって、あなただけのひまわりが陽の目を見ずに永遠に失われる悲しみについて、想像してみるのもありかもね。