学習障がいを抱えて生きてきた。障がい者への差別も克服できません

私は学習障がいを抱えて生きてきたのでふつうという概念が嫌いになりました。とりわけ「ふつうの人」は全員脳内で消そうとしています。暴言ついでに告白すると自分が該当するのに障がい者への差別もなかなか克服できません。

私は学習障がいの中の書字障がいです。人によって程度が変わるのでサクッと説明すると、私は気合いでやれば文字を覚えることができます。そのため私自身文字を覚えられないのはどの程度が努力不足なのか障がいのせいなのかわかりません。漢字や英単語を覚える時間は大変精神的に苦痛です。

しかし、中学生の時なんかは、「ガイジは死ね!」などと言い合う同級生を見ながら、ヤァきみたちはふつうの脳をお持ちにもかかわらず漢字テストは平均点もいかないんだね、あ、私は満点ですよと心でほくそ笑む復讐心から必死に勉強しました。

それと、自分は優秀だと思いたい一心でした。障がいへの罵倒を学校やネットで見かけると心臓がどきどき。肩身が狭くなります。しだいに日常にあるあらゆる差別を気にするようになり、障がい者を攻撃する私に出会ってしまいました。

差別をする私を軽蔑しますか? 当然だと答える人はきっとこの世に文字がなければ私は障がい者ではなくなることに気付いていくれていますよね。

診断されて気にしたのは、特別支援学級に入れられるかどうか

障がいを診断されたのは小学校五年生の時。努力量に結果が比例していないのを不審に思った母に連れられ検査しました。

そのことで1番初めに私が気にしたのは特別支援学級に入れられるかどうか。私にとって障害は刑罰でした。一年生の時、クラスの人が悪さをするとイエローカードを渡されました。それが三つ集まると「支援学級行き」。誰かの刑が執行されるのを見るのはとっても面白かった。そんなことを思い出し、動揺。まさかのレッドカード?今まで通り普通学級だと知ると心の底から安心しました。

中高の定期テストで障がいの合理的配慮をするため学校側と話し合う時も困りました。ふつうの脳がわからないので要望を常に遠慮してしまいました。私は私の基準で生きています。素直にいうなら、筆記問題が全部なくなれば万事解決だった。でもそんなことは絶対にない。ふつうの人たちがふつうに学習レベルを測れず困る。合理的配慮に満足したことはありませんが、理不尽ですとも言えませんでした。みんなだって漢字が苦手な人がいて、同じくらい覚えられない人も頑張っていて…。混乱するからこの話は苦手です。

私たちは常に自分がベース。「ふつうの健常者」を見ていると

大学試験の配慮の個別相談では、書字障がいと言っているにもかかわらず担当者には連絡先を紙に書けと私にペンを渡しました。屈辱で泣きましたが彼には理由が伝わっていないようでした。残念ながらこんなことはしばしばあります。障害を作るのは健常なんです。知っていましたか?

私たちは常に自分をベースに生きています。自分は何の差別もせず不特定多数の一員である。そんなツラをした「ふつうの健常者」を見ているとああリアルじゃないなと思います。まったく。こういう「ふつう」に直面して打ちひしがれると記憶の中で中学校の廊下を歩いて理科室に行くようにしています。現実世界が暑さで汗が止まらない日でも手がかじかむような寒い日でもあそこでは窓から桜が見えて、常に三月のあたたかい風が流れる卒業式。

式が終わった後理科室に行った人には、理科の先生が卒業記念品として昭和に作られたであろうガラクタをくれる極秘イベントを決行していました。会いに行くと、悩む15歳を気にかけたのかぼそっと伝えてくれました。
「人間ってそもそも、骨の数が人によって違うんだよねぇ。」
何度でもこの言葉を思い出しては噛み締めています。