当時、私は地元の進学校に通っていた。親族からも将来を期待される、いわゆる「優等生」だった。その日常が、突然奪われることになった。忘れもしない、高校1年生の時のことだった。
その時は、突然訪れた。通学中の電車に乗っていると息が苦しくなり、居てもたってもいられなくなってしまったのだ。それは、パニック障害というものだった。
それから私の人生は狂い始めた。その後も様々な症状に苦しまされ、やがて学校にも行けなくなった。適応障害、摂食障害、うつ…これらの病気を経験して、とうとう「障害者」というレッテルをはられることとなった。
将来を期待され、その後の人生に夢を膨らませていた女子高生は、失望した。
「もう、元の生活には戻れないのだ」と。
支えてくれた人々の言葉で、自分を肯定できるようになった。
私は世間から「障害者」として見られる。障害者への世間の当たりはきつい。「障害者は障害者らしくしていろ」そう言われたこともある。合理的配慮を求めたが、断られたこともある。そのような経験から私は障害のことをひた隠しにして生きてきた。そして、私は自分の人生を半ば諦めていた。障害者は健常者より劣っている。周りの人と同じことができない。同じことができないことは悪いこと。だからおとなしくしていなければならない。たくさんの固定観念に縛られていた。しかし、人との出逢いでその考えは大きく覆される。
それは、高校時代の恩師たちである。私の障害を受け入れ、理解し、支えてくれた。どうしたら私の能力が活かせるか、共に悩み、考え、実行してくれた。幸い友人にも恵まれ、障害をオープンにしてもそれまでと変わらず付き合ってくれた。彼らは私の障害を個性として受け止め、その個性を生かそうとしてくれる。その心遣いがとてもうれしかった。
彼らは皆、口々に言う。
「あなたはそのままで十分だ」
と。
今まで私は障害をハンディキャップとして捉えていた。そして、それは人より劣っていると思い込んでいた。ましてや、それを公にするなんて考えもしなかった。いかに周りに気付かれないようにするか。そればかりを考えて毎日怯えるように生活していた。
しかし、彼らのその言葉で私は救われた。初めて、自分を肯定できるようになった。自分を認め、やりたいことはとことん追求する。また、できないことは援助を頼むことを覚えた。周りの支援を借り、少しずつできることが増えていった。
障害者である前に、ひとりの人間なのだから
近年、障害者差別解消法が認知されるようになり、多くの場面で支援が得られるようになってきたと感じる。教育の面でも学習指導要領に障害のある児童生徒への配慮の項目が出来たし、大学入試でも配慮が受けられるようになった。しかし、支援を得るとそれはずるいと見なされたり、正当な評価が得られないといった問題から、支援を求められない人も多くいるのが現実だ。さらに、精神障害者への偏見を根強く持っている人もいる。それには様々な歴史的背景や社会問題が関わっているが、私はひとりの障害者として声を大にして言いたい。
「障害者も胸を張って生きよう」と。
支援を受ける立場上、自分を卑下したくなったり、できないことに目を向けて悲しくなったりすることも多い。しかし、障害があったってひとりの人間であることに変わりはない。
私は今、大学生になった。病気のために授業に出られなかったり、入院することもある。しかし、私だってれっきとした女子大生だ。友達と恋バナしたり、お洒落をしたり。人生を楽しんで一体何が悪いのだろうか。
「障害者は障害者らしく」
そんなものは取っ払って、一度きりの人生を思い切り楽しみたいと思う。そして、そのきっかけをくれた恩師に感謝している。