「太った」
「足がもう少し長ければ」
「胸を大きくしたい」
「乳首の色が気になる」

なんてあげればキリがない、私から見たからだへの不満。
鏡を見れば粗を探して、こうなればいいのにと嘆いて、やれ食事制限だ運動だなんだと続きもしないことに頭を悩ませる。

わたしが無意識に作った基準の元はなんだ?

「からだと視線」というテーマを聞いた時に、私が縛られている視線は誰のものだろうと考えた。
そして行き着いた答えは「わたしの視線」だった。
誰かに言われたことよりも、私が私を見て思うのだ。
「こんなからだじゃだめだ」
なんでこんなことを思うんだろう。からだに正解なんてない。健康であればそれでいい。でもそう思えない。だめ、良いは何によって決められたんだろう。憧れのからだ、と言うものがある。わたしはそれになぜ憧れたんだろう。今まで考えてきたことのない謎だった。そして、もしかしたらと言う答えに辿り着いた。
それは生まれた時から存在していた「こうあるべき女の子」によって作り出されたということ。

物事には基準というものがあって、それがあるから良し悪しや段階が決められる。それに従うと、わたしのからだへの不満や憧れも何か基準があってはじめて成り立つはずだ。
その基準となるものを、無意識にすきな芸能人にしていたんだと思う。それはまあわかる。憧れのあの人のようになりたい、と思うのは自然なことだ。
じゃあなんであの人に憧れたんだろう。スタイルがいい。そう、だから憧れるんだ。
じゃあスタイルがいいの基準って?
わかりにくい話になってしまったが、言いたいことはこれだ。
「わたしが無意識に作った基準の元はなんだ?」

じゃあなくそう。わたしの中からこの基準を

生まれた時から、この世には美しさの基準に溢れていた。誰かから学ばなくとも刷り込まれ続けてきた。痩せたいというのも雑誌に載っている「○○センチなら○○キロ!」から大きくかけ離れているからで、顔を小さくしたいというのも「人気モデル○○ちゃんはなんと8.5頭身!」に少しでも近付きたいからだった。
それが正解だと思っていた。いや、なんなら今も思っている。
だってたくさんの雑誌やテレビで言われているから。世界とは言わないが、日本での基準なら日本で暮らす以上参考にすべきなのだろうと。何も疑っていなかった。こんなに多くの媒体から流れてくるんだから、疑う必要もなかった。

だが、気付いてしまった。誰がどう作ったのかも知らないことを基準にしていることに。わたしが納得しているのか、求めているのか、自分のことなのにそれさえもわからない基準を。
それでいいわけない。
じゃあなくそう。わたしの中からこの基準を。
そうすれば、どんなからだでも受け入れられる筈だ。他人のからだを勝手にジャッジして自分のからだと比べて安堵したり嘆いたり。そんな最悪の連鎖から抜け出せるんだろう。絶対そっちの方がいい。だってごはんはすきなものをすきなように食べたい。どんなからだだって誰かに迷惑をかけることもない。無理な運動だってしたくない。基準なんてあるから比べてしまうのだ。ない方がいい。
でも、でもだ。果たして基準がなかった時のわたしは本当にそう考えられていたんだろうか。

わたしのための新たな基準を作るべきなのかも

「基準」のない世界が想像できない。もう当たり前のように存在するなかで生きてきたから。なければ解放されるかもしれないとせっかく気付いたのに、でもそれが少し怖い。
基準に慣れすぎたのか、もしかしたらこれがわたしにとって実は納得のいく基準なのか。でもそれは一度この基準から抜け出さないと気付けないものであるということもわかっている。

基準がなかったら、からだについてどう考えていたんだろう。
答えが出ない。なぜなら基準のある世に生まれたから。
わたしの視線が今日もからだを滑るたびに、基準も頭の中を過ぎる。
新たな基準を作るべきなのかもしれない。誰の為でもない。わたしの視線でわたしのからだをわたしが愛するための基準を。