私のからだに一番向き合っているのは、私だと思う。太って体重を計ったら、冷や汗をかく。一方、着ていなかったお洒落着を着て、緩いと困り笑いをする。
私が太ると、まずたまに会う人を思い浮かべる。この前こんな服で会ったのに、と。私と会ったことすら思い浮かべない人達も多いだろう。けれど、その関係性は、私の中では誰かの視線になるのだ。
彼らと前に会った時、着ていたブラウスが緩い。それだけで、自分の意識は変わる。恋愛系コラムで見かける、髪を切ったのに彼は気づかない!と寂しがる、女性心理に近いのだろう。

社会で生きるって素敵だ。社会に揉まれるとか、常識なんて打ち破れって叫びはだんだん減ってきた。代わりに、自分らしく、ありのままにと謳われる。確かに、最近は生きやすい。イエス、ノーに加えて、グレーという選択肢が浸透しつつあるのだから。

肩が広くて、顔が肉々しい私はとにかく嫌いだ。コンプレックスだ。でも、そんな肩があるから着られる服や、そんな顔の輪郭を強みに捉える美容外科がある。
結局、社会の視線はグレーだ。

ヨガに行って、専用のウェアを着ていると、普段より女性の視線を感じる。肩が広い分、胸があるからだろう。だがそれが、好意的な視線という気もしない。

周りの視線に磨かれるよりも、私が私のからだと向き合えばいい

私は、周りの視線を意識する。知り合いと会うからこころも、からだも、愛し続けていたくなる。さらに、社会の視線も受け取っている。一回一緒にヨガをした、意識の高い女性の視線によって。

「なるほど、私は胸が目立つのか。それって私の “好き” になったな。」
「私の肩幅って、服で誤魔化せない。けれど、知り合いってそこは意識しないのか。」

その気づきが、私とからだを向き合わせる。
もっと何がしたいのか、私自身に抱かせる。

ただ痩せたかった自分は、痩せ始めたら、もっと胸を保ちたくなった。肉々しい輪廓はメイクで隠してきたのに、童顔が流行り始めたら、ノーファンデで過ごしている。

私が、私のからだと向き合っていればいいのだと思う。
諦めない、傷付けないでいる。その心持ちだけで、からだは自身に愛され始める。

自分の頭の中とこころを、からだで発信していきたい

自分のからだで、人と向き合うって素敵だ。本音と建前とか、お世辞は徐々に形骸化してきた。頭より、こころで伝えるお声がけこそ本心だ、愛だと思う。

知り合いからの「痩せたね」「綺麗だね」も、ヨガ仲間の「スタイルが良いですね」も、挨拶の一つだった。
“久しぶり!最近は元気?”や、“どうも。お先に”というニュアンスだ。
そういう他人の本心を、私のからだが感じたはずである。

私は、もっと自分のからだを愛すのだと思う。
だからこそ、自分の頭の中とこころを、からだで発信していける。そういう愛の視線を、私は他人に与え続けたい。