先日、私が尊敬してやまない先輩が恋人とお別れになった。彼女は、長くお付き合いした彼氏をフッたのである。文章だけをみれば単純な話にみえるが、かなりの紆余曲折、彼女の苦悩と悲しみを経ての結果であることを私は知っている。しかし、二人が関係をやめるということはお互いの人生に必要なことだったのだろう。

「やめる」ということは人生において「やる」ことと同じかそれ以上に大切なことだと私は考えている。同時に難しい選択だということも知っている。
「やらずに後悔よりやって後悔」の類の格言は世に溢れ返り、誰もが挑戦とか勝負に駆り立てられている気がする。
一方で「やめる」という言葉は一人でいると、どうしてもネガティブに捉えられることが多い。「やめる」ことで今まで手にしてきた何かを得られなくなったり、二度と同じ場所へ戻れなくなるリスクがあるからだ。
しかし、何かを得続けることや同じ場所に留まることだけに意義はあるのだろうか。そこで少しでも疑問を持ったならやめてみるのも立派な選択肢である。

それでも「やめる」という選択肢に踏み出せなくて

そう自分に言い聞かせても、一歩踏み出せない自分がもどかしい。
私にもやめたいことがある。私の場合は今の仕事だろうか。今の仕事にやっと慣れてきたところではあるが、最近になって他にもやってみたいことができてきた。
まだこの道で一人前にもなれていない私が他のことに興味を持つなんて自分でも無謀だと思う。ただの現実逃避だと指摘する声もあるだろう。誰もがやめておいた方がいいと言うだろう。
しかし、今取り組んでいることを心から楽しめないのなら、自分らしくあることができないのなら、自分のためにも他に関係する人のためにも、そこから一度離れるべきではないだろうか。
そう考えてみても、やはり「やめる」ことは「もったいなくて」「向こう見ず」なことだと私自身に叱られる気がして、いつも私は同じ場所で足踏みをしている。それは甘えだと私が私を諌めている。

しかし新しいことを「やる」ために古いことを「やめる」のは当然のことである。真理である。そう考えれば、やはり「やめる」ことは何ら不自然なことではない。
まして甘えなどといったちっちゃな感情を超越した次元にあるようにさえ思える。
今していることが自分のためにならないと思えるのなら、新しく何かを「やる」ために「やめよう」。「やる」と「やめる」は相反するようで実は連続性という関係を持っている。もしやめることに罪悪感を感じるのなら、代わりに何かを始めればいい。

まだまだ私の感情や理性は決断を鈍らせてくるが、「やめる」ことについてじっくり考えていきたい。そしていずれ新しいことをやるつもりだ。