九月はまだまだ暑いけれど、多くのアパレルブランドはもう秋冬コレクションを出している。少し先の季節のことを想像しながらインターネットで洋服を物色するのは本当に楽しい。
英国風チェックのトレンチコートや、こっくりとしたかぼちゃ色のカーディガンを身につけたわたしはきっと、紅葉が美しいキャンパスによく似合うだろう。この服を買ったら、髪はミルクティー色に染めてベレー帽をかぶりたいし、バーガンディのアイシャドウだって絶対に似合う…靴は…なんて妄想をしていると気が付けば数時間が経っている。それくらい、服が好きだ。

ただ、わたしの雀の涙ほどのアルバイト代で買える服というのは限られているので、結局いつも安くてお手頃なファストファッションブランドで購入している。しかしコロナ禍で外出しない日々が続いて、服を持つ意味について今までより深く考えるようになった。

新品同様でクローゼットで眠る服と頭に浮かんだ”sweatshop”

今まで季節が変わるごとに当たり前のように買っていた服は本当に必要だったのか、安さだけに飛びついて、本当は必要ないものまで買っていたのではなかったか。振り返ってみれば、「安いからついでに」とか「あと何円分買えば送料無料になるから」などといった理由で買った服は、一、二回着ただけで、クローゼットの中に眠っていることが多い。もったいない…。

服について考える中で、以前大学の授業でsweatshopについて学んだことを思い出した。sweatshopとは、安い賃金かつ劣悪な労働環境で大量生産を図る搾取工場のことである。そうやって大量生産された服は、大量消費されると同時に大量に廃棄されている。これは持続可能な開発目標、SDGsの「つくる責任、つかう責任」に反していると言える。劣悪な労働環境は先進国と途上国との不平等な関係を固定化しているだけではなく、衣料の大量生産、大量廃棄は地球環境にも悪影響を与えているからだ。

「安い、可愛い」だけで選んだ服が、誰かを苦しめている?

わたしがよく購入するブランドも1000円~2000円くらいの価格帯で、街中で意図せず誰かとお揃いになることがあるくらい大量生産されている。高ければ良い、安ければ悪い、という訳ではないし、工場の実態こそ分からないものの、わたしが何も考えずに着ていた服が誰かを苦しめている可能性があるかもしれない、と思うといたたまれなくなった。

もちろん、機械の導入による自動化が進んでいるし、工場が雇用を生み出しているという事実もあるので、ブランドに対して不買運動をすることは、逆効果なのかもしれない。しかし、少しでもエシカルな選択をする人が増え、それが消費者のトレンドになっていけば、生産者側も消費者のニーズに合わせようとするだろう。

社会は政治家や権力者が作るものではない。わたしたち自身の小さな選択ひとつで社会を変えることはできる。

服が、お洒落が好き。だからこそ、考えられる人間でありたい

わたしは服が好きだ。お洒落することが好きだ。新しい服に袖を通す瞬間のトキメキは何にも変えられない。しかし、だからこそ、考えなくてはいけない。想像力を働かせなくてはならない。今着ているそのシャツやワンピースはどうやって作られたのか、誰が作っているのか。安いということを手放しで喜べない事情がそこにあるのかもしれない。今見えているものだけが全てだと信じて疑わないのではなく、背景にあるものを想像できる人間でありたい。

わたしたちの当たり前の暮らしがいかに当たり前でないかを慮るところから全ては始まる。

一緒に、考えてみませんか。