「あなたは先輩に飲みに誘われても、行きたいときは行く、行きたくないときは行かない我の強い人間だから」

それは入社1年目に、私がOJT担当の先輩に面談でかけられた言葉だった。
はっきり言って、まったく身に覚えのないことだった。この先輩は一体何を言っているのかわからなかった。疲れているのか、何かヘンな夢でも見ていたのか…?
じっくり話を聞くと、どうやら私が1か月前に職場の先輩との飲みを断ったことが原因らしい。

ある日情けないことに体調を崩した私は、本来残業すべきところ急遽リーダーに相談して定時で帰らせてもらった。その帰り道に別の先輩に飲み会に誘われたのだ。
もちろん後輩としては参加したほうが良い。でも残業を断ってまで参加するのは違う。ましてや体調を崩している身で、飲み会で嘔吐でもしたら大変だ。迷いに迷って断った飲み会だった。

どうやら飲み会を断った事実が独り歩きし、OJTの先輩の耳に届き、彼の脳内で「私が気分的に行きたくなかったから断った」と脳内変換されたらしい。
呆れた。何も知らないくせにデタラメな人格を勝手に作り上げて、説教して。誤った評価をさも事実かのように語られ、軽蔑の念を抱いた。

正当に評価されるのは難しい。ニーチェの名言で思い知らされる

そんな忌々しい出来事も忘れかけた頃、私は一冊の本を購入した。哲学者・ニーチェの名言集。その中で、興味深い名言があった。
「自分の評判など気にするな」
「人間というのは間違った評価をされるのがふつう」
それを読んだ途端、あのOJT面談の光景がフラッシュバックした。

考えれば、たった数ヶ月のOJT期間で先輩が私のすべてを見抜けるわけがない。私がさほど先輩に心を開いていたわけでもなかったから、なおさらだ。私の考えや行動をすべてさらけ出さない限り、一ミリの狂いもなく正当に評価されるのは難しいのだと思う。
社会は時に理不尽で、常に納得のいく評価を得られるわけではないと頭ではわかっていたつもりだった。
でも、頭のどこかで正当に評価されることを無意識に期待していたのかもしれない。飲み会を断った時のことも、「体調不良だから仕方ない」「先輩もわかってくれるはずだ」といつの間にか期待してしまっていたのだ。

じつは就職活動をしていたときの私は、たかが数回の面接で私の何がわかるのだろうと生意気にも高を括っていた。だったら入社後だって、特に新入社員なら誤った評価を受けるのも理不尽だが納得だ。

人の性格を断定することを避け、分かり合うことへの期待を手放す

これらの出来事を踏まえ、無意識に抱いていた「きっとわかってもらえる」という期待は意識的に捨てることにした。もちろん、信頼している家族や友人はこの限りではない。
性格が合わず、同じコミュニティにいながらすれ違うだけの人も大勢いる。
でも、それは決して悪いことではない。ごく自然のことなのだ。

とはいえ冒頭に記したように、相手のことを良く知らないクセに自分の評価がさも正しいかのように相手の性格断定するのは考え物だ。人は間違った評価をするのが普通だと学んだ以上は、人の性格を易々と断定するのは避けようと思う。そんな行動は人間として未熟だと思うし、周囲に同じ不快な思いはさせたくない。

「人からの評価を気にしない」「人に正当に評価されることを期待しない」
ありきたりな言葉だが、身をもって学んだからには実行するしかない。そして残酷に聞こえるかもしれないが、ときに人と分かり合うことを諦めることも生きる術なのかもしれない。明日から、少しでも生きやすい日々を送る術。