「はしたない」
「これは派手すぎね」
「こんなの着るの?」
ばあちゃんと一緒に暮らしていた頃、わたしの服が洗濯物として干される度に不満の声がした。特に下着に関してはレースやカップが大きいことが特に不満なようだった。
「もっと地味なシンプルのはないの?」
抵抗もめんどくさかった。言い返しても結局議論が平行線を辿るのはわかり切っていた。文句を言われる度、好きで選んだ服がきれいに見えなくなった。
母親は「そんなの気にしなければいい」と言う。でも、聞いてしまったものをなかったものにできるほどわたしは器用じゃなかった。
そのせいか、同年代がかわいい服で着飾る頃、わたしは服に全く関心が持てなかった。かわいい子が着るからあの服はかわいいのだと思った。かわいい柄のスカートもきっとわたしには似合わない。ばあちゃんの世界の中での「ふつうの服」を着ていればなにも文句は言われない。「家」という心を休めたい場所で怒ったり悲しんだりしたくなかった。
だからわたしはなるべく地味な服を選んで着るようになった。
服を断捨離してみたらときめくものがまるでない
転機は一人暮らしを始めてから訪れた。
社会人になったわたしは会社の近くで一人暮らしを始めた。始めたての頃は母親からもらった服から、着まわして外に出られる妥協点の服を作っていた。わたしに似合う服なんてわからないし、なんとなく上と下が柄ものでなければいいかと考えることをやめていた。洋服を選ぶことが苦痛だった。
ばあちゃんも母親もわたしが新しい洋服を買わないことが不満なようだった。わたしへのプレゼントに、と何枚も洋服を送ってきた。わたしの趣味ではないけども、まあまあ着やすく、色どりも無難な洋服が増えた。
洋服ダンスに入りきらなくなった服をどうにかしなければ、と当時流行っていた断捨離のコラム等を読み散らかした。断捨離はときめくものを残し、ときめかないものを捨てるとよいらしい。持っている服をすべて床にだし、ときめくもの、ときめかないもの、と分けていく。最後の一枚を仕分けしようとして手が止まった。「明日着ていく服がない」
結局、一週間に2回洗濯するとして、着まわせる量の服の組み合わせを考えて残した。でも困ったことにその服を好きになれそうになかった。
なんでわたしの家にわたしがすきでないものがあるのか不思議だった。服を買おうという気はあまり起きなかったが、下着はそろそろ新調しなければならない。
今回はわたしが買うのなら、いつも買っている無難なものではなくするのはどうだろう。
だれに怒られるわけでもないのだから好きな下着を選ぶ
インターネットのショッピングサイトに接続して、わたしがかわいいと思う下着をどんどんカートの中に追加した。かわいいと思うのは普段は絶対に買わないであろう、レースがたくさんついているかわいい柄のものだった。だれに怒られるわけでもないのだが、どきどきしながら購入した。
「これかわいいね」
新しい下着を身に着けたわたしを見て、恋人が褒めてくれた。下着を褒められるのは初めてだった。恥ずかしいやらなんやらで顔を背けてしまったが嬉しかった。洋服を褒められた初めての経験だったかもしれない。
ここでの失敗はカップのサイズをBで注文してしまったことだ。アンダーも見栄を張ってすこしきつめのを頼んでしまった。以前カップが大きいものを干して小言を食らったことがあり、大きいサイズを買うのに抵抗があった。下着屋での計測も片手で数えられる程度しかやっていない。また大きいサイズを言われると思うと怖かった。でも今は違う。
今度はわたしのサイズに合ったものを、信頼できる下着屋にいって買ってこようと思う。もちろん柄はわたしの琴線にふれるものを選ぶ。普段は見えない下着だが、下着を買えるだけでも気分が高揚することに気付けた出来事に感謝を。