「ふつうの女性」であれば受け入れて戦うことも考えられたのかもしれない。そういう選択を取ることもできたのかもしれない。かもしれない、かもしれないと考えるだけで終わるのは、私の心が女性ではないからである。しかしそれは、「=男性」ではない。

体は女性。心は男性でも女性でもない。それが紛れもなく私の真実であり、なかなか理解を得難いところである。

私は昔、構成作家を志望していた。人を笑わせる素晴らしい仕事をしたい。共につくる側の人間になりたい。そんな青い思いと、右も左もわからない故のがむしゃらさで養成所の扉を叩いた。

私はどんなに努力をしても「”女性”構成作家」にしかなれない

養成所や現場の仕事を経て気づいたことは、私は構成作家になれないということだ。私は初めから、どんなに頑張っても面白い人間であったとしても「”女性”構成作家」にしかなれないのである。この世は不思議で、男芸人とは呼ばずとも女芸人と括られたり、なぜか女性は女性性を前面にすることを前提に戦わねばならない時がまだまだある。年齢と見た目の性別だけで「若い女性」としての振る舞いを望まれ、流行りだ若い子の好きなものだ恋愛だなんだ、嫌気が差すほど女性でしかいられない。反吐が出そうなほどクラシックな男社会。自分が認識している性別と違う振る舞いを強要されることが苦痛なのは、そんなに想像し難いことだろうか。

そんな、いまだに古臭く汚い社会の中でも活躍されている女性がいることは、本当に喜ばしいことだしかっこいいと思う。そして羨ましく思う。まずは男女が等しく戦える社会にならなければ、どちらにも該当せず苦しんでいる者の未来はもっと無い。


仕事の話をしても性的に消費され、いつしか私は笑えなくなった

自分が「ふつうの女性」であれば「”女性”構成作家」である事を逆手にとってブイブイ言わせた未来もあったかもしれない。しかし私にはあまりにも苦痛だった。ネタを好きだと本人に伝えたら性的な好意だと誤解されて寒気がした。ただでさえ不愉快な出来事であろうに、女性として見られることすら不愉快な私は二重に苦しんだ。少年のように髪を短く切り揃えても、体型が出ない服を意図的に選んでも、私は「ボーイッシュな若い女性」にしかなれないのだ。男性構成作家のような距離感で芸人と関わることは生まれた時点でできなかった。あんなこと言わなければよかった。自分が悪かったのだ。誰より自分で自分を責めて、名前をつけ難い後悔が頭を埋め尽くした。

人を笑わせる素晴らしい仕事で、私は笑えなくなっていった。自分で選んだわけでもないのに、厳密に言えば女性ですらないのに、見た目が若い女性というだけで見下され、馬鹿にされ、都合よく消費される。こんなのは豊かじゃない。これは私にとってエンタメではない。

仕事を人を手放したら心が落ち着いた 大丈夫、今は充電期間

私は、この世には男と女しかいないという「ふつう」を超えられていないのである。見た目通り戸籍通り、女として振舞うのが正しくて賢くて、たとえ息苦しくても逆らうのは馬鹿のすること、頭悪い。超えられなかった私は、関わるのを辞めた。社会と、人と、一度は憧れた仕事と。

これまでの生活が嘘みたいに晴れやかで、開放的な気持ちになった。大丈夫、この充電期間を経たら、きっとまたどこか遠くに行ける。そう言い聞かせながら充電を続けて早一年である。はい?漏電してるんじゃないですか?大丈夫大丈夫、きっと次は、何だって超えられる。そう信じなきゃやってらんないでしょ。