「あ、苦しい」

学生時代に毎日聴いていた、大好きなアイドルの応援歌。いわば私の青春。ことあるごとに私に前を向かせてくれた、思い入れのある曲。数年ぶりに再生したのだが、あろうことか私は演奏から開始わずか2秒でプレイヤーの「停止」ボタンを押下した。

「同じ曲でも、歳をとるにつれて聴こえ方が変わってくる」という話を聞いたことがあるのだが、20代中盤に差し掛かかった私は、ようやくそれを実感した。
私の場合は、「自分に勇気と希望を与えてくれる応援歌」が、「悪意無しに自分に絶望を突きつける雑音」に変わってしまった。

「がんばって」
「きっと大丈夫だから」
「あなたは十分頑張っているよ」

応援歌とひとことで言っても、曲によっていろいろなメッセージ性があるのだと思うけれど、どれを聴いても心が苦しい。ネガティブな私をどうにか前向きにさせようとする応援歌たちは、20代中盤になって酸いも甘いも経験した私には、まぶしすぎた。

応援歌の期待に応えられない自分に絶望してしまう

「がんばって」と言われてもがんばれない自分がいる。
「きっと大丈夫だから」と言われても未来に不安を感じる自分がいる。
「十分頑張っているよ」と言われてもしっくりこない自分がいる。

学生時代の自分は、応援歌を聴いては「よし、がんばろう!」と心を入れ替えて前を向くのがルーティンだったのに、そんな自分がいつの間にかいなくなってしまった。
今となっては、応援歌を聴いたところで共感することもできず、応援歌の期待に応えられない自分に絶望してしまうのだ。
極論を言うと、苦しいなら聴かなければいいだけの話。だけど、応援歌を素直に聴けないほど自分の心は汚れてしまったのかと思うと、心底がっかりしてしまう。

がんばれともがんばらなくてもいいとも言わない曲が私を楽にしてくれる

「4つ打ちの曲が好き」
「ダンスナンバーが好き」
「EDMが好き」

いつからか私は周囲にこう公言するようになったが、今思い返すとそれはかつて鬼のようにリピートしていた応援歌から遠ざかっていたサインなのかもしれない。
脈を打つようなビートと、思わず踊りだしたくなるような軽快なメロディーが、私何もかもを忘れさせてくれる。

かつて見よう見まねで好きなアーティストのダンスをコピーしていたこともあり、ダンサブルな曲を聴くと自然と踊りだしたくなる。
曲たちが、「がんばれ」とも「がんばらなくていい」とも言わず、何も考えずひたすら私が躍ることを許してくれる。
感情に訴えかけるような歌詞が無いのが、私にとっては本当にラクだ。いや、もしかしたら実は何か深い歌詞なのかもしれないけれど、英詞なのでバカな私にはわからない。大好きだ。こうやって嗜好が変わるのも、良くも悪くも大人になった証拠なのだろうか…。

とりあえず、応援歌がまぶしすぎるので離れてみよう。何も考えられずに踊っていられるダンスミュージックに浸って、頭の中を空っぽにしてみよう。
応援歌が素直に聴けないのも大人になった証だ。悲観することなんてない。たぶん。たぶんね。