物心ついた頃から多様性の世界で生きている。

アニメにどっぷりはまっていたって変な目で見られることはないし、ダンスを唯一の学問として人生を歩む人もいる。自分の道を進む彼らが、ひと昔前だったら特殊な存在として周囲から孤立させられていたかもしれないと思うと、本当におかしな考え方が存在していたと思う。多くの人が経験することを同じようにちゃんと経験して、多数派から離脱しない位置にいることで、安心していたのかもしれない。
今では、ひとりひとりの個性を重んじる考え方が浸透してきて、さらにそれを隠すどころか自ら発信することが主流の時代となりつつある。本当に素晴らしいことだ。

けれど、この多様性の世界は、「自分は何も持っていないのだ」と錯覚しやすい世界でもあると思う。

幼い頃に中国に住んでいて中国語がペラペラの友人、高校生の時からアクションを習っている友人、スキー世界大会で優勝経験のある友人―こんなにレアなケースではないとしても、趣味や特技、服装や見た目など、自分以外の誰もが素晴らしい個性を持っている。
そんな、周囲に溢れる個性に気づくたびに、私は考えてしまうのだ。それに対して自分は―と。

「自分は何も持っていないのだ」という感覚は錯覚でしかない

こんな考えは、ひどい悪循環を引き起こす。自分が特殊性のない、どこにでもいるような存在だと思い込んでしまうと、自分なんか頑張ったって何も変わらないのだと投げやりになったりもする。
そうすると、せっかくの自分だけの個性は、自分自身に気づいてもらえないまま、本当にないものになってしまうかもしれない。最悪の場合、自分なんかいなくてもいいのではないかとまで考え込んでしまう。
けれど実際には、私自身も含めて、何も持っていない空っぽな人間なんていないのだ。だから、繰り返しになるが、「自分は何も持っていないのだ」という感覚は錯覚でしかない。

私がそのことにちゃんと気づけたのは、大学生になってからだった。
人のことを「わかる」ために、人と話すことを知ったのだ。
「わかる」ための対話は、その人の趣味や特技、服装や見た目といった単体としての情報だけでなく、その人だけの物語を知ろうとすることである。

経験や感情、考え方はその人しか持っていない物語

特技があるのなら、どうしてそれを始めて、どんな気持ちで取り組んでいて―その特技を持っている人が他にもたくさんいるとしても、それに伴う経験や感情、考え方はその人しか持っていない物語なのだ。それを知ることはとても面白いと思った。
物語は複雑で一言にまとめられるものではないけれど、ああ、この人はこういう人なのか、と感じられる強い根拠になる気がした。むしろそういう分類わけできない物語こそが、その人の個性そのものなのだと思った。

そう思うと、私にだって立派な個性があるじゃないか。私は今まで、まだそんなに長くはないけれど、ちゃんと日々を生きてきて、他の誰も語ることができない、無数の物語を持っているのだから。

同じ制服を着て教室に座っていても同じ物語は二つとない

思い返すと高校生の時、みんな毎日同じ制服を着て同じ教室に机を並べて座っているのに、同じ世界にはいないような気がしていた。そして、制服を捨て教室を飛び出して自由になった時、他のみんなはその個性をより存分に発揮して進んでいくのだろうと思った。
自分だけがいつまでも空っぽで、何もできないことが明らかになってしまうのではないかと思っていた。
その時の私は、周りの人のことも、そして自分自身も、表面的にしか見ていなかったのだと思う。それが、錯覚を引き起こしていたのだ。

自分の物語を、自分を愛して進んでいこう。そしてその先で出会うさらなる物語が、私を輝かせてくれるのだ。