12の夏、私は人魚に出会った。勢いをつけてプールサイドに上がった私は乱れた呼吸を整えながら身体に密着したスクール水着の肩紐や股下のラインを幾度も直し、飛び込み台へ戻ろうとしていた。学校のプールは水槽に似ていて、水槽は私たちの住む世界に似ている。だから私は泳ぎが得意だけれど学校のプールではうまく呼吸ができない。呼吸というのは何も肺だけでするものではなく、体中に張り巡らされた鱗を通して水を感じることだったりする。海でなら私を浄化する水の冷たさも、ここでは神経を逆立たせる不安の温度だ。

「あいつヤバくね?」
 男子の笑い声が塩素の匂いとともに向こう岸からやってくる。
「信じられないんだけど」
 背後からは女子のひそひそ話が聞こえる。

みんなの視線の先にいたのは、まぎれもない人魚でヒーローだった

――うそ、私?

胃がキュッと縮む。次の瞬間、私は強引に肩を組まれ、不吉な緊張は解けた。駆け寄ってきたのは距離感がやたらと近い枝さんだ。
「遊花見てよ、北川さん」
彼女が指差す方に視線を向けると何が起こっているのかすぐにピンときた。彼女は続けて言った。
「中学生にもなってボーボーってあの子ちょっと変だよね」
「親が厳しいのかも。肌が弱いとか」
私は咄嗟に返した。反応が期待に沿わなかったのか彼女は3メートル先にいる五十嵐さんのもとへ小走りし、また同じ話を持ちかけている。

――隣のクラスの北川さんって人魚だったんだ

釘付けになった。彼女がクロールの息継ぎをするたびに水面に姿を現す豊かな脇毛。彼女は私がとうに失った鱗を未だ大事に持っている人魚のようだ。彼女が水を掻き分けるたびこの窮屈な水槽は太平洋に生まれ変わる。
正直、脇毛の光景は衝撃だった。私は小学3年生から体毛がコンプレックスで毎晩刃を肌に沿わせていた。何故、自然に生える毛を女という理由でコンプレックスに思う必要があるのかなど考える余地なく”普通”でいることを飲み込んでいた。だから恥ずかしげもなく脇毛を剥き出しにしている彼女はみんなにとって異端児で、私にとってはヒーローだった。

二人だけのお昼の放送室、北川さんは夏の似合う少女だと知った

その日を境に北川さんは浮いた。プールでの出来事が起爆剤となったのだ。もともと正義感が強く、くだらない愛想笑いができないタイプだからこうなるのも時間の問題だったのかもしれない。誰よりも真っ直ぐな彼女をみんなは"ズレてる"と揶揄するようになった。"ズレてる"のは多分私達の方なのに。脇毛女、女として終わってる、そんな言葉を浴びせられ、北川さんは孤立した。彼女は自分に向けられた視線に気付いていたし、発端が脇毛ということもわかっていた。それでも尚、彼女は脇はもちろん腕や脚の体毛を処理することなく水泳の授業では美しいフォームでクロールを泳ぎ続けた。

北川さんと私には接点があった。2人とも放送委員会で月曜日のお昼の放送当番なのだ。彼女は普段私から話しかけられるのを拒んだが(私に飛び火するのを恐れたのだろう)放送室では気さくに接してくれた。廊下で見かける強張った表情とは別人でユーモアと知性に溢れた夏の似合う少女だった。私達は放送室の窓から脚を放り出して給食を食べたり『Sex on the Beach』という、歌詞の大部分が「Sex on the Beach」をはじめとしたカクテルやお酒の名前だけで構成されているクラブミュージックを給食の時間に流して副校長が鬼の形相で放送室に飛び込んできたり……。

彼女の真っ赤な脇毛に憧れて、おっぱい丸出しのまま泣きそうだった

そんなこんなで仲は深まり、夏休み、北川さんのお家に遊びに行った。お母様に案内されリビングに入ると彼女はとんでもない姿で横たわっていた。上半身裸で万歳をし、脇毛にはクリームが塗りたくられていたのだ。おはよ~と気の抜けた挨拶をしてきた彼女に私は食い気味で「脇毛なくなっちゃうの?」の尋ねた。すると北川さんは「違う違う。染めてるの、脇毛。今度家族で海水浴行くから」と私を慰めるように言った。

――北川さんの脇毛がなくならなくてよかった。ってか脇毛染めるってどういうことよ

私も拍子抜けして笑った。それからお母様が「遊花ちゃんも一緒にどう?」と顔を覗き込むからてっきり海水浴の話だと思い、是非、と返事をするとノリノリで薬剤を取り出してきた。夏らしく胸が弾んだ。それからロックスターの真似をして開放的にTシャツを脱ぎ捨てれば、自分はつまらない人間だってことを思い出した。私は昨晩も脇毛を剃っている。急に涙が溢れそうになった。
「1年伸ばして来年の夏一緒に染めたらいいよ」
「次は青がいいかな?レインボーだっていいよ?シロップかけ放題のかき氷みたいなさ!」

泣き出しそうな私に気づいたおっぱい丸出し脇毛ブリーチ中の北川さんが生懸命話しかけてくる。おかしくて、優しくて、自分がみっともなくて、ますます涙が出そうだ。

――私、勘違いしてた。彼女の隣にいて自分まで特別になったつもりでいた

北川さんの脇毛は燃えるような赤に染まった。

北川さん、今どこにいますか。私、いいナオンになるからね。

夏休みの間、私はせっせと脇毛を伸ばした。二学期のプール、北川さんは真っ赤な脇毛で登場するのだろうか。色落ちして薄ピンクになっているかもしれない。それとも黒染めするのだろうか。しかし北川さんが学校に来ることは二度となかった。隣のクラスの子に聞いたら、転校したんだって、とだけ言われてそれ以上は聞けなかった。二学期最初のプール、私は結局脇をつるつるにして人魚のいない窮屈な水槽を泳いだ。彼女はヒーローなんかじゃなくて辛い時も当たり前にある私と同じ制服を着た12歳だってことに今さら気づく。泣いて、泣いて、みんなが浸かっているこのプールを私の涙で埋め尽くしてやりたい。そんなことを考えながら精一杯クロールを泳いだけれど、涙はゴーグルに溜まるだけだった。

21歳の今、彼女はどこで何をしているだろう。時々頬を濡らしながら信念を貫いているだろうか。ならば私は彼女と堂々と肩を並べられるいいナオンになろう。それとも普通を幾つか飲み込んで愛想笑いにも慣れただろうか。ならば次は私が彼女のヒーローになろう。いつの日か彼女と脇毛をレインボーに染めたくて、永久脱毛の予定はこの夏も繰り越される。