多くの人の中には、それぞれの『ふつう』がある。

一人称の代わりが「普通は」と「皆」。ひどいと何もなくなる

 田舎からそこそこの都会へ出て、アルバイトを転々として、今もコールセンターを辞めようとしているわたしは、今まで色々な人の『ふつう』に触れてきた。
 その度にわたしは、正直とてもうんざりしている。何故なら人は『ふつう』を押し通すとき、それに反する相手の話などいちいちまともに取り合わないからだ。
 わたしが「ああ、取りつく島なく『ふつう』だなぁ」と思うのは、相手が一人称を一切使わずに意見を述べてくるときだ。
 あまりにも当たり前に思っていることを言うとき、多くの人は「私は」とは言わない。少なくともその人にとって、それは自分個人の意見ではないからだ。
 そんなとき一人称の代わりに出てくるのが「普通は」と「皆」で、もっとひどくなると今度は何もなくなる。
 最早、自分が口にしている意見や考え方の『主語』を言わなくなるのだ。
 恐らく、その人の中で『普通』を極めたその意見の主語は「この地球上では」なのだろう。

マスターとベテラン演奏者は、自分の『ふつう』を信じていた

大学生時代にアルバイトをした生オケのバーでの経験は、とても象徴的な出来事だった。

「きみ弾き語りやるんでしょ。次はギター持ってきて一曲弾いてみなよ。お客さんいないときなら歌っていいよ」
 マスターにそう言われて、わたしは早速次の出勤日に一曲歌わせてもらった。そしてすぐにステージを降りようとすると、今度はこう言われた。
「いやいや、一曲じゃ物足りないでしょう。僕たちも君の歌がどんなかわからないし、何曲かやってみなよ」
 わたしはそういうものなのかとステージに戻り、適当にレパートリーから選んで歌いだす。丁度そのとき、ベテラン演奏者が出勤してきた。
 その後いつ止めていいのか分からず、結局わたしは三曲くらい演奏してから、マスターの表情を気にしながらソロソロとステージを降りた。
 そのとき、ベテラン演奏者はわたしに向かって渋い顔をしながらこう言ったのだ。
「あなたね、こういうのは何曲もやらないの。一曲やらせてもらってすっと降りるのよ」
 このときマスターがわたしを庇わなかったことも問題だったが、それにしたってバカみたいな出来事だった。
 同じ店の中でさえ考えがすれ違うというのに、マスターとベテラン演奏者は自分の『ふつう』を信じていたのだ。

『ふつう』を超えて自分の地球の外に出るのは、あまりにも心細い

 わたしにはもう、何が『ふつう』なのかよくわからない。
 もう「赤い実なんだ?」と言われて「林檎!」と即答できた頃には戻れないのだ。何故ならわたしは柘榴もトマトも苺も柊もさくらんぼもクコの実も知っている。
 しかしお構いなしに、今日もお客様は自分の『ふつう』を押しつけてくる。いきなり「上の奴を出せ!」と言うお客様だけでも、コールセンターの責任者を指名したつもりのお客様と社長を指名したつもりのお客様がいる。
 ただ、わたしは、この人たちのすべてが『ふつう』を脱することに耐えられるとは思っていない。
 『ふつう』を超えて、その外に出るのは、あまりにも心細いのだ。
 それは大袈裟に言えば「急に空が落ちてくるわけがない」とも「急に空が落ちてくる」とも信じていない状態だ。安心もしていなければ、不安にさえ形がない。
 更にいえば他人の『ふつう』をぶつけられたときに自分の『ふつう』で対抗することもできない。常識を説いているつもりの人に一個人の意見を述べるつもりで反論しても、大抵は取り合われない。若い女なら尚更だ。
 こんなことならわたしだって、六畳一間の地球に住みたい。わたしだって自分の考えや学びを普通だと思い込んで、相手に押しつけていようとそんなことは自覚せずに幸せに暮らしたい。
 だけどわたしは六畳一間の地球を出てしまった。一度出てしまったら、外を知ってしまったなら、もう『何も知らない自分』に戻ることはできないのだ。
 二度と『ふつう』は超えられない。