「これがふつう」だと思い込むことは人を殺す。
「ふつう」であることで何かから身を守れている気になっているなら、それは大きな間違いだ。
思い込みが危険だと思い知ったのは、婦人病にかかったと分かったとき
「これぐらいみんなやってる。これぐらいふつう」という思い込みがとても危険なものだと思い知ったのは、自分が婦人病にかかっていると分かったときだ。
わたしは生理痛が重かった。中学に上がってから生理痛は年々重くなり、大学卒業後会社員になってからは生理2日目はベッドに寝たきりで、痛みで呼吸すら億劫だった。
今思えばどう考えても「ふつうの」生理痛ではないのだが、当時のわたしは「このぐらいの生理痛はふつう」だと思い込んでいた。生理休暇を取り、効きもしない鎮痛剤を気休めに飲んだ。
重い生理痛に加えて月経不順も現れたとき、ようやく婦人科に行った。内診中、カーテンの向こうで先生が「あーあーあーあー」「今まで相当痛かったでしょ、これ」と言った。子宮内膜症ステージ4、左右の卵巣に大きな嚢胞があった。手術が必要だった。
重い生理痛を「これくらいふつう」だなんて思い込もうとしなければ、もっと早く婦人科に行って病気を見つけられただろう。
やりたいことを邪魔しようとする「ふつう」には絶対に耳を貸さない
「ふつう」は実体を持たない。どこかに「ふつう」がまとめられたふつう法規があるわけでもない。
「ふつう」は人々の頭の中で作り上げられた思い込みの集合体に他ならない。そして自分が作ったその「ふつう」に従って「ちゃんとした」人になった気分になったり、時には傷付けられたり殺されたりする。
わたしは生理痛の一件で、自分の思う「ふつう」がいかに無意味なものかを知った。わたしが「ふつう」だと思い込んでいたものは全く「ふつう」ではなかったのだ。
自分の「ふつう」に殺されかけた経験から、今は「ふつう」に鈍感に生きることができている。鈍感に生きようと努めている。特に、わたしのやりたいことを邪魔しようとする「ふつう」には絶対に耳を貸さない。
「ふつう」は当てにならない。わたしを助けてくれない。害をなすことはあっても。だから自分が思うように、やりたいようにやる。「ふつうかどうか」で何かを決めることはしたくない。
大切なのは「ふつう」かどうかではない。自分がどう感じるか
わたしが何かをやると決めたときに「ふつうはそんなことしないよ」、わたしが何かをやらないと決めたときに「みんなふつうにやってるよ」といちいち教えてくださる人たちがいる。余計なお世話だ。「ふつう」かどうかなんてわたしのやりたいことに関係ない。
何かを決めるときに「ふつう」を参考にするくらいなら良い。例えば、何かを買うときにAmazonランキングを見て「ふつうはみんなどれを買ってるのかな」と参考にするくらい。多くの人がそれを選んだのは、それなりの理由があると思うからだ。
だが、「ふつう」であるために自分の言動を選んでしまうのは駄目だ。「ふつう」を自分の願望の上に立たせてしまっては駄目だ。
その「ふつう」はわたしの頭の中にしかない幻想、思い違いに過ぎない。自分で作った「ふつう」に縛られて自分の思うようにできないなんて馬鹿げている。
何をするにしても、大切なのは「ふつう」かどうかではない。自分がどう感じるか。自分や隣にいる人と向き合うこと。自分がやりたいことをやって、その結果を受け止める覚悟だけは決めておくこと。それだけが大事だ。
自分のあり方は、その都度自分で決めていくしかない。
「ふつう」な自分でなくなってしまうことを怖がっているうちは、自分の人生を生きることなんてできるわけがないのだから。
「ふつう」に殺されかけたわたしは、もう「ふつう」には殺されない。