「ふつう」という言葉はいつだって私たちを苦しめる。
2種類の呪いをかけることができるからだ。

世は「個性」の時代。思春期になるにつれ、「個性」は突然牙をむいた

ひとつは、価値観を封じ込めようとする呪い。

「もっと普通の恋愛を」「普通の仕事を」「普通に考えてさ」

そんな言葉で人を自由に動けなくさせる。

もうひとつは、カテゴライズして見下そうとする呪い。

「量産型」「没個性」

そんな言葉ができたのは、いつからだろう。

平成に生まれ落ちたわたしが物心ついたとき、世はまさに「個性」の時代であった。

何度も音読させられた、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」。

それはきっと、多様性を認めあうためにはじまった、よい風潮のはじまりだったはずだ。

けれど思春期になるにつれ、個性は突然牙をむいた。

流行りの音楽を聴けば、「あーそれ、みんな聴いてるよね」。

似通った服を着る人が増えれば「量産型ファッション」と貶し、

「そういう人いるいる(笑)」となぜかバカにされる。

個性を「個性的」とし、「人とは違うこと」と解釈しはじめたばかりに

人と同じことをすれば普通で退屈なやつという烙印を押される。

大学で「サブカル」に傾倒。人の知らないものがかっこいいと思った

かくいうわたしも、大学の頃にはそんな脅迫観念に囚われて、いわゆる「サブカル」に傾倒した。

人の知らない音楽・映画・本、ニッチな喫茶店、そんなものがかっこいいと思っていた。(もちろん、モノ自体は本当に素敵なものばかりだ)

しかし、就職してなかなか趣味にも時間が割けなくなりはじめた頃、そんな価値観が突然馬鹿馬鹿しくなった。
そして、当時「みんな」が聴いていた流行りの音楽をひとつ思い出して、Apple Musicで検索。
プレイボタンをタップして、涙がでた。

良い曲だった。
いったい、わたしは何が怖かったんだろう。何から逃げていたんだろう。

ふつうになっていくことが怖かった。でもふつうって何?

ふつうになってしまったら、自分の個性がなくなると思っていた。

個性は人より尖っていることではない。その人の、ありのままの姿

もうこれは、既に気づかれはじめていることだが、個性は人より尖っていることではない。その人の、ありのままの姿だ。

自分らしくあることは、人と同じではいけないことではない。

周りが着てる、聴いている、読んでいる、そんなことはどうだって良いのかもしれない。自分が好きかどうか、やりたいかどうか、それだけでよかったのに。

端から見たら同じような服を着ている子たちだって、それぞれが違う考えを持って違う人生を送っている。

「ふつうに」大学を出て、企業に就職して、異性と結婚した人だって、一人一人がまったく別の人間なのに。

そうやって勝手に一括りにカテゴライズして、「ふつう」という塊を無理やりに作るから、「もっとふつうになりなよ」というひとつめの呪いを生むのかもしれない。

まずは「ふつう」の解体からはじめることだ。

「量産型」「没個性」なんて人は1人もいない。

あの頃のように「みんなちがって、みんないい」を、声にだしてみる。