「動物の本や映画には興味がないの」 と言ってのけるフランシス・ハのことが好きだ。
「フランシス・ハ」とは映画のタイトルで、主人公の名前の一部だ。
彼女は、私が「思っていても、決して言えない」と思っていたことを、いとも簡単に、口に出す。
「動物の本や映画には興味がないの」と堂々と言う彼女は、憧れの存在
映画が大好きだ。けれど、SFやアクションジャンルには全くそそられない私がいる。
「映画が好きです」と言うと、必ずSFやアクションの話になってしまう。映画といえば、SFの超大作で溢れている事、アクションの迫力が素晴らしいこと、わかってはいるけれど、私は映画にそれを求めていないみたいだ。
全く観たことがないわけではないので、話は合わせられるけれど、「映画好きなら普通観ていますよね」という前提が苦しく感じる時がある。
だから1人で部屋を暗くしてフランシス・ハを観たときに、「動物の本や映画には興味がないの」と堂々と言ってのける彼女は、私が越えられずにいる一線を、軽々越えた憧れの存在になった。
けれど何故だろう。彼女は、映画を見ている限り年齢よりも子供っぽく、自分の意見がある自立した女性というよりは、たくさんの人に守られている存在に見える。
わかってくれると思う相手にだけ飛び出す重めの本音
「フランシス・ハ、俺も好きですよ」という人と本屋に行った。
本が好き、と話すと、「私も、僕も、」とみんな言ってくれるけれど、みんなが読んでいるのは自己啓発本だったりする。「本当に考え方が変わるよ」とたくさん勧められた。何冊か読んでみた上で、私は全く興味がない。
「私、小説を読むのが好き」
という言い方に、自然と変わっていった。
この日もちょうど、ベストセラーコーナーを物色していた彼にそう言った。すると彼は、
「ショウペン・ハウエルの”読書について”って読んだことありますか?」
と言った。首を横に振ると、
「要約すると、本は考える時間を奪うから、読めば読むほど自分で考えなくなる。っていう本なんですけど。自己啓発本は、そういうことの最たるものだと思うから、俺も読みません」
と答えた。びっくりした。フランシス・ハと同じだ。うっすら思っていたけれど、私が決して口に出さなかったことを言ってしまう。しかも彼の言葉は、咀嚼するほど重たくなる。ひとたび気がついてしまうと少しギョッとしてしまう程の本音は、私が飛び越えたいラインの高さを、軽々と100mは越えているようだった。
「君相手だったから」
と彼は言った。
意見があるというだけで、誰かを追い込むことがある気がしてしまう
私が一線を越えられずにいる理由を、実はわかっている。
フリーランスになってすぐ、一度だけ一緒にお仕事をした男性だ。自己啓発本や恋愛実用書をたくさん読み、その内容を正解のように語る人だった。
その人は「普通は」とか「○○さんは」と、自分以外の誰かを一人称にして何かを語ってばかりいた。お互いの意見が違ったとき、それは余計に顕著になった。
「○○さんはそうなんですね。私はこう思っています。あなたの意見を聞きたいのだけれど」
こんな風に言ってしまったこともあった。でもある日、その人はこう言った。
「普通っていう基準がないと、何もできない人がいるんだよ。本当にわからないから」
全く想定外だった。そんなこと想像したこともなかった。
誰しもが自分の中に自分自身の考え方があって、だけれどもっと「社会的に成功している人」や「世の中の平均」に近づくことで安心しているのだと思っていた。
本当にまっさらで、生まれたてのように不安で仕方がない人が存在する、ということが衝撃だった。
「普通は」という言葉で否定される度に、なんて想像力のない人なんだろう、と思っていたけれど、私もまた、想像力が足りなかった。
この人との出会いがあってから、意見があるというだけで、誰かを追い込むことがある気がしてしまう。
フランシス・ハのことを思う。あの映画の中で、私が憧れる彼女は何故傷つけたくない誰かを、傷つけてしまうのだろう。
私が越えられない一線を越えて意見を言える彼女なのに、何故私よりも生きづらそうに見えるのだろうか。
「君相手だったから」
ああ、これか。と思う。
フランシス・ハに足りなかったのはこれかもしれない。
彼女を好きで、彼女の苦手を見つけた私は、もしかしたら少しずつ、ラインを越えてゆけるかもしれない。