私のたからものは、私の意思だ。

なんて言いつつ、私は自分の意思に対し価値を見出せずにいた。常々「自分を卑下したつまらない人生を変えたい」と思い続け、自己啓発本や小説にその答えを求めてきた。他者の様々な価値観に触れながら自分と向き合っていく中で、自分の意思を大事にすることが人生を豊かに楽しくする第一歩だと考えるようになった。
読みたい本を読む、観たい映画を見る、好きになったガールズグループのファンクラブに入る、とか簡単なことばかりなのだけれど、なるべく否定せずに受け入れて行動に移すようにした。今では、自分との時間が少しずつ豊かなものになってきていると感じている。

そんな中、他者に対して自分の意思を守った行動を取れるかどうか、試される曲面にぶち当たった。

何日も悩み、友人たちとの食事から抜けた

友人たちとの食事の約束を数日後に控えたある日。
緊急事態宣言が解除になった頃に約束した食事だったが、都心でコロナの第二波が起こり始め私の住む地方にも感染者が出始めてしまった。約束を目前にして毎日増える感染者数、分からない感染経路、不安が募っていく。

ー食事に行かない方がいいんじゃないか?

でも、食事に行くことをみんな楽しみにしていたし、第一発案者が何も言ってこない。誰かが「今はやめておいた方がいいんじゃない?」と言ってくれるのを待っていたが、そんな気配はない。
日増しに友人たちと私の価値観の違いが浮き彫りになってくる。
友人たちと私の生活圏のズレが原因か、長時間の食事に対する警戒心が違うようだ。
それでも私は、自分がコロナに感染する可能性や自分発信でコロナを拡げる可能性が少しでもあるなら、それを見過ごすことがどうしてもできない。

何日も悩んだ結果(夢の中でまでも悩んでいたくらいだ)、私は自分の意思を優先し、友人たちと行く食事から、抜けた。

私の価値観でみんなの行動を変える気はないので、一方的に行くのをやめた。
私だって会いたいし話したい気持ちはちゃんとあることを伝えたくて、LINEでの文章は30分くらい悩んで誠意を込めて作った。どれだけ短くしても結局15行も使ってしまう程には。

返って来たのは、了解の一言だった。

意思を貫くには無傷ではいられない

あぁ、これくらいのことみんなに合わせれば良かった、めんどくさいと思われたよね、、

呼吸が浅くなって視界は曇る。
ショックだった。
大切なものが砂になって手のひらから溢れていくような、虚しさで胸がいっぱいになった。

それだけのことで?と思う人もいるかもしれないが、30代間近の私にとって学生時代からの友達の存在は大きくて大切なものだから、失うのは恐い。
学生時代よりもずっと空気を読むことに必死になって、たとえ自分の意に反していたとしても相手を不快にしない方を優先して行動してきていたのに。
私は自分の意思を優先してしまった。意思とはひどく自己中で利己的なもののように感じる。こんなもの、大事にする意味なんてあるのだろうか。

だけど、今起こっている物事は、私に起こっている。私が決断するしかないことのはずだ。

ようやく「私」を友人たちに伝えられたことが誇らしい

「自分の意思を優先してしまった」とその時は感じたが、不思議と今は「自分の意思を大事にできた」と感じている。確かに傷ついた。それでも今、少し誇らしい気持ちが芽生えている。ようやく「私」を友人たちに伝えられたことに。

友人たちとの関係がどう変化するかは分からないが、「私」という輪郭がはっきりと見えた今、きっとこれまでよりも厚みのあるものになっていくような気がしている。