普通とはなんなのか。
保育士として働く中で「普通はさぁ」と言って何事も比較する人もいる。
「普通って?」と、私はいつも不思議に思う。なんなのか?
「自分は正しい」と概念のパズルを作っていないだろうか?
みんな産まれた瞬間から、環境も食事も言葉も生活も障害であったり何もかもが違う。それをあたかも「自分は正しい」という概念の型はめパズルを作り、自分の中にあるピースをはめ込んでいく。
その型とピースが違えば「変わっている」「違う」「理解できない」と言われ、目を変え言葉のヤリをビュンビュンと飛ばしてくるのだ。そのヤリが、心に刺さっているとも知らずに。
“普通”、その言葉はとても攻撃的だ。だが、それに誰も気づかない。気づこうともしない。
「そうよね、そうよね」と同調するばかり。それで良いのだろうか?
いいや、違う。私も、子どもを産み育てるまでは、理想もありそれが絶対に叶うような自信と希望と普通の幸せがあると思っていた。でも、実際どうだ? 全然違う。
幸せでいたい、楽な気持ちでいたい…という「無言のルール」
子どもを産んで体型は変化し、毎日を過ごすことに精一杯になり化粧や髪を綺麗にする為の美容室にもなかなか行けないこともあった。「保育士で子どもをみるプロだから、子育てなんてお手の物だ!」と思っていたがそうもいかず、ADHD(注意欠如・多動症)の4歳の息子毎日手を焼いている。
そんな息子を見て、周りはどう思うか。「なんて落ち着きのない子」「しつけのなってない子」「親がちゃんと見ていないから」など好き勝手に言うのだ。そう、普通ではないからだ。
自分の基準から外れているものは、あぶれてしまう。普通から外れてしまえば、知ることも理解されることもない。そんなこと、日常茶飯事だ。
その中で「自分自身が息子に対して全て理解出来ているか?」と問われれば、全くそうでもなく、自分の中での普通に当てはまらない我が子にイラつき「なぜだ?」と自分を責め、落ち着きのなく言葉が上手く入っていかない我が子に落ち込むこともある。「それではいけない」と分かっていても難しいと感じるのだ。それくらい、“普通”が心にも身体にも染みついているのだ。
だが、難しいからとそこで終わってはいけないと奮起したこともあるが、なかなか持続せずパワーが切れて勝手に涙があふれる日もあった。
そんな時、私の祖母が「普通ってさ、幸せでいたいからつい思っちゃうし言っちゃうと思うの。誰もが自分は普通って思いたいのよ。そうしたらなんか楽じゃない。疲れないし、このままでいいんだって認められるような気がしていいじゃない。なにかしらね、普通って。無言の中にあるルールなのかしらね」と言った。
私は納得した。そうだよねと。私も楽になりたいし、認められたいと強く思っていたからだ。
個性を尊重して、やさしい気持ちが溢れた「生きやすい未来」へ
しかし、理解をして欲しいのならば、知ってもらわなければならない。だが、きっと普通はなくならないだろう。ただ、普通のハードルが低くなり誰でも超えられるようになれば、普通の壁も楽に破れたら、“普通”もいい言葉に感じられる日がくるかも知れないと思うのだ。
みんな違ってみんな良い。それぞれの個性を尊重して、受け止め誰もが生きやすい世の中にしていこうとなってきている世界。差別や偏見をなくし、みんなが助け合い、感謝する心、実践、意識の変化が世界中で起こっているのではないかと感じる。
私自身も我が子が生きづらいと感じず、普通というルールのある日々が生きやすい日常にと変わっていくように願い続ける。
子どもと、1分1秒でも長く笑って手を取り合える日々が続くようにと願い、今日も未来への長い旅路をゆったりと、寒くても暑くても辛いトゲトゲ道でも、ひたすら歩き続けよう。ゴールのない旅路、頑張らずに自分達のペースで歩いていこう。