人と違うことをしたいのに人と同じことしかできない。誰かと同じなら怪我をすることもないし、失うものもない。今が平穏無事であればあるほどわざわざその状況を変化させてまで挑戦するべきなのだろうか、などとどうしても保守的な思考が頭に蔓延ってしまう。「私」という個人として認められることを成し遂げたいと思っていても、個を消して不特定多数の中に混じる歪な心地よさが、どうしても邪魔してしまう。

やりたいです、とまっすぐに口に出すことはできなかった

少し前、私は初めてIT業界のカンファレンスで、登壇発表する機会を頂戴しました。システムエンジニアとして、就職してから初めてITの世界に飛び込んで、右も左もわからないままがむしゃらに、時には心を折りながら、なんとか立ち止まらずにずるずる這いずりながら前に進んで、それなりの年月が経った頃のことです。ちょうど話す枠があるので、プレゼンをしてみないかと当時の上司に声をかけていただいて、飲みの席で意識もふわふわしていた私は勢いだけで返事をしていました。

「海外行きたいか?」
「はい、行きたいです!」
「会社の金で海外行きたいか?」
「最高です!」
「じゃあ、海外のカンファレンスで登壇するしかないな。それなら、まず日本のカンファレンスで登壇して慣れた方がいいな」
「はい!」

上司の上手な口車に見事に乗せられて、あれよあれよという間に登壇の手筈が整っていました。ただ、口車に乗せられて、とは書いてしまいましたが、今改めて自分の気持ちに向き合うと、多分、心の底ではプレゼンをしたかったのだと思います。自分にしかできない、自分個人として認められることをしたい。ずっと胸の内に燻っていた思いは、未だに自分の中に閉じ込められていました。

だけれども、失敗するのが怖い。たくさんの人の前で、失望されたくない。こんな若造が何言っているんだと思われたらどうしよう。色々な不透明な不安と恐怖が自分の視界を狭めていて、やりたいです、とまっすぐに口に出すことはできなかった。だから、こういう風に、「プレゼンしたい」ではなく「海外行きたい」に日本語を上手に変えて提案してくださった上司の優しさとお気遣いには、当時はもちろん、今でも心から感謝しています。

私のおそらく人生初めての”ちょっと人とは違うこと”へのチャレンジ

それからは初めてのタイトル、プレゼン概要作成、そして最も重要なプレゼン資料の作成と人生で一二を争うせわしない日々を過ごしました。おそらく大学受験以来の追い込み様。資料は思い切って自分が自信をもって話せる部分のみに絞って、手は広げすぎない。台本を丸覚えするのではなく、あくまでトピックと論立てだけを頭に入れて、自然に話せるように。体が覚えるように登壇ぎりぎりまでぶつぶつバックヤードで口に出しながら、ついに自分の出番を迎えました。

壇上に立つと、数百人の方の顔が一気に視界に入ってきました。普段生活をしていては浴びることのないスポットライト、マイクを通して聞こえる自分の声。登壇時間の三十分ほぼぴったりであまりに非日常な時間は呆気なく終了しました。後で映像を見返すと、話している時の私の表情には全く笑顔は浮かんでいませんでした。こうして私のおそらく人生初めての”ちょっと人とは違うこと”へのチャレンジは幕を閉じたのでした。

自分にしか着れない服を手に入れた。フットワークが軽くなった

なぜこのことを思い返しながら書いているとかというと、この瞬間私は何か一つの線を飛び越えたような気がしたからです。この挑戦からもちろんたくさんのことを得ることができましたが一つ確実に変わったことは、周りが私のことを、「あの時登壇した人」と認識してくださるようになったことでした。私はまるで、自分が自分にしか着ることのできない服を一着手に入れたような気持ちがしたのを覚えています。不思議なもので、この服を着ていると、人とは違うことをしても許される、という風に思えてきます。そもそも許す、許されるというものでもないのですが、少なくともあれだけ怖いと思っていた壁を越えた先にこんな景色が待っているなら、またチャレンジしてみたいと、強く思うようになりました。多分この感覚は、一歩踏み出さない限り決して得ることができなくて、だけれど一度あの「服」を手に入れることができたなら、このプラスのサイクルがぐるぐる回っていって、何事もやらない理由がない、と本当にフットワークが軽くなったと思います。

じゃあ普通じゃないことをやってみようと文字だけ書くのはとっても簡単なことなのですが、チャレンジしなければ頭ではわかっていても、皆と同じ空間で一つ踏み出すのは本当に怖いし、私もまだまだ手を付けられていないことがたくさんです。ただ、当時の景色を思い出すと、結局自分の意志だけではなくて、すでに先にいる人に引っ張りあげていただいたというのが正しかったのだろうなと思います。自分で見ることのできない世界は人を通してしか見ることができなくて、そうして少しずつ世界が広がっていって、ある時誰かを通して、その一線を越えるタイミングがある。入ったその世界で、新しい服を手に入れて、また誰かの世界を少し垣間見れる。自分だけでいいやと思うことも多いですが、誰かといることが結局自分を大きくするのかもしれないと、三十歳を前にしてやり残したことをたくさん思い返すたびに心に留めています。