美容師になった元同期から、カットモデルの依頼の連絡が届いた。
心の底からすごいと思ったし、それと同じくらい愚かだとも思った
その頃、駆け出しの営業だった私は、それはそれは荒んでいた。
毎日日付が変わる時間に帰宅して、風呂に入るのもままならず気絶するように寝て、翌朝遅刻寸前の時間に飛び起きて、営業車の中で雑に化粧をした。
日中は平気そうな顔をして、夜は都内のワンルームのごみ溜めで泣いていた。ずっとこんな暮らしが続くなら、自分なんかいついなくなってもいいと思った。
仕事柄、上っ面だけはキレイに整えていたけれど、中身は腐りきっていて、ぷすりとナイフでも入れたら膿が噴きだしてきそうだった。
そんな中、同期が美容師に転職した。
喫煙所でタバコを吸いながら早く辞めたいとぼやく彼女をずっと見ていたが、本当に辞めるとは思ってもいなかった私には晴天の霹靂であった。
ずっと夢だった美容師になるそうだ。
そういえば私にも夢があったな、年ばかり食って頭でっかちになった私には眩しすぎて、目を逸らしたまま忘れてしまった夢が…
日常にのまれず、激務の合間を縫って転職活動をこなすことの難しさを私は知っている。だから心の底からすごいと思ったし、それと同じくらい愚かだとも思った。
夢を叶えることと夢で食っていけるようになることは全くの別物だということも、私は知っていたから。
1年ぶりに会うと、やさぐれていた彼女はどこにもいなかった
それでも仕事で培った営業スマイルを張り付けて、おめでとうと送り出したのが1年前だっただろうか。久々に会いたい気持ちも手伝って休日に彼女の働くサロンに赴いた。
1年ぶりに会った彼女は別人のようだった。
営業所の地下にある暗く煙たい喫煙所やさぐれていた彼女は、もうどこにもいなかった。
「久しぶり、来てくれてありがとう!」
最近どう?そろそろ仕事忙しくなる時期じゃない?例の上司とはうまくやれてる?
なんて、たわいもない世間話をしながら、丁寧に私の髪を梳く彼女を鏡越しに見て、ああ、本当に美容師になったんだなと思った。
「髪だいぶ伸びたねー」言われて気付く。私は死んだように過ごした一年だったけれど、体はちゃんと生きていたんだなと。
同期はどんな1年を過ごしたのかな、そう思ったが聞かなくてもわかった。
美容師はうやうやしくハサミを手に取り、私の古い細胞を、意地を、見栄を、切り落としていく。
営業終了後の静まり返ったサロンに響く、しゃきしゃきという音が小気味よい。
口数も減り、真剣な眼差しの元同期を見ながら、私は目尻に溜まった涙を乾かすのに必死だった。
ゆっくりだけど、素人目にはわからないところまでこだわって、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら小一時間、「できたよ」の声に顔を上げるとさっぱりした私がいた。
私は彼女の作品だと思うと、背筋が伸びる。粗末にしてはいけない
もっと上手くなるからまた来てね、と見送られ、帰路についた。
電車の窓に映る私はなんだか別人のように見慣れない。牡丹の香りだというシャンプーの残り香が鼻をくすぐる度、同期の真剣な表情が思い出され、粗末にしてはいけないなと思った。
私は彼女の作品なのだ、そう思うと背筋が伸びる。彼女がおまじないをかけてくれたようだった。髪は女の命とはよく言ったもので、髪も命も丁寧に扱って初めて輝けるのだなと世の金言を一つ理解した。
今年、私は3年続けた営業部を外れる。本社に異動届を出したのだ。
時間にゆとりはできるが給与は落ちる。だけどもう迷いはない。これからは、髪も気持ちも夢も含めて、自分を大切にしようと思うから。
昔から夢だったエッセイストになる第一歩を踏み出すため、退勤後カフェに立ち寄りPCを開く。
他人を介してでしかまだ自分を慈しむことはできないけれど、本当に私が私を認められるようになるまで、彼女が整えてくれた髪の毛に願掛けさせてほしい。