先日放送された「港区女子」の回の「ねほりんぱほりん」が、ネット上で話題になっていた。というかそもそも、あの番組は放送終了後毎度話題になる。もぐらやブタの人形に扮するMCとゲストが根掘り葉掘り赤裸々トークを繰り広げる様子は、放送の歴史が長くなった今でも新鮮でキャッチーだし、私も大好きなEテレ番組の1つだ。
そして、大好きだという前提で話すのだけれど、私がその「港区女子」の回を見終わった今もなお、なんだか心に引っ掛かっている、番組内でアナウンサー(牛)が発した一言がある。
『◯◯女子というように、女性をカテゴライズする事に批判的な意見も聞かれます』
という一言だ。
「港区女子」に会ったことがないけど、平然と使ってしまっている自分
カテゴライズ。カテゴリー、つまり種類を選り分けること。そしてそれに対する批判的な意見……。これって、もしかしてすごく大きな話なんじゃないだろうか?と、その横文字の単語に私は立ち止まってしまった。
というのも、私自身親しい友人と話す中で「港区女子みたい!」と言ったことがあるのを思い出したのである(ちなみに私は、センター分けの外巻きロングの髪型を指してそう言った)。
私は関西在住。「港区女子」とはお会いしたことがない。っぽい同級生ならいるけど。ってか、「っぽい」とか「みたい」とか……。こんなにボンヤリとした実態のないカテゴライズを、平然と使ってしまっている自分に、今さら少し驚く。……これでいいのか。
どうして人は、他人をカテゴライズしたがるんだろう。私が思うに、そもそも世の中の他者に対するカテゴライズは、大きく分けて2種類ある気がする。それは、主観が大きいものと、小さいものだ。
生活スタイルやファッションなど、多くの要素をひっくるめたカテゴリー、「港区女子」。これを他者から呼称されたとしたら、それは主観の押しつけだ。的を得ているとは限らないし、嫌な気持ちになる人もいるだろう。
また、私のように「っぽい」「みたい」とオブラートに包んだとて、誰かを傷付ける可能性は大いにある。そしてメディアやSNSの発信では、その相手の傷付きに、中々気付くことができない。
◯◯女子、◯顔、◯◯系……それまで名前の無かったものに、主観で名前が付けられて流行するまでのスピードは、ここ数年で爆速になった。キャッチーなフレーズは耳障りが良く、目にも新鮮。それによって回る経済もあるだろうし、名前を付けなくては深まらない文化も、盛り上がらない女子会もある。私も「考えた人の頭はシャープだな」と感心したりもする。メリットは大きい。それはみんな承知している。
しかし実際、カテゴライズは批判されることもあるし、危険性も孕んでいる。
イメージは人それぞれなのに・・・・・・。「あるべき論」の押し付け
問題点の1つとして、そこからはみ出た存在のものも同じ箱にパッケージングされてしまう可能性がある。
「地雷女子」や「メンヘラ女子」。もうこんなん、どこの誰が、どの様な状態の女性を指して呼んだのが始まりだったのか。名付けられた当時の意味とは異なる意味合いがその後付随されていったら、その変遷を辿ることは不可能だ。
またこれらの言葉は、幅広く大勢の女子を語るときも使われるし、本当にメンタルを病んで医療機関にかかっている女の子を指して言われることもある。かと思えば、メイクやファッションの1ジャンルとしてポップに消費されることもある。
そんな幅広い認識に紐付いていることによって起こる、別の問題もある。それは、カテゴリーに対する思いやイメージは人それぞれなのに、それが完全に全国民共通であるという誤認識を持たれかねないという点だ。
「地下アイドル」や「ワーママ」ならかくあるべき、とかがまさにそれ。カテゴリーに名前が付いていることによって、「あるべき論」を他人に押し付ける人間が生まれやすくなる。
そしてそのカテゴリーに含まれる人が、1つマイナスの印象を与える出来事を起こしたとき、全体のイメージがガタ落ちする報道や炎上に遭うという現象も、私たちは昨今散々目にしてきた。それは見ていて決して気持ちの良いものではなかった。
カテゴライズ、こっわ。
無意識に人を傷つけたり、傷つけられることのないように
しかし恐らく、私たちの住む日本列島というガラパゴスでは、これからも多種多様な文化が生まれるだろうし、それが◯◯女子や◯◯系などと名付けられていくのも、きっと止められないと思う。私たちがそんなラベリングとうまく共存していくには、ハッとした体験や感じた違和感をスルーしないことが有効なのではないだろうか。
「◯◯女子ってこういうものだと思いこんでいたけど違ったわ」とか、「◯◯系って言われて、嫌な気持ちになったんだけど」とか。そういうことを、振り返ったり、人に話すことで、多角的な視野を養いあうきっかけになると思う。常に自分の知る情報が全てではないと自覚しておくことが、人を傷付けないことに繋がるのではないだろうか。
ここで重要なのは、文字数制限があって尚且つ不特定多数に目撃されるSNSでそれをやるのはとても危険だという事。対面の良さって、万が一相手の心をザワつかせてしまったときに、サッと気付ける可能性が高いというところ。自分が発する言葉が他人にどう響くか、心の機微に敏感な人に、私はなりたい。
「ねほりんぱほりん」の冒頭で、あえて『◯◯女子というように、女性をカテゴライズする事に批判的な意見も聞かれます』という注釈が入ったのも、そうしてカテゴライズされ、くくられたゲストを毎回呼んでいる全国放映の番組としての、責任の現れだったと私は受け止める。
今後、私が他人をくくって話すとき、もしくは他人にくくられたとき、無意識に傷つけたり、過度に傷つけられることのないように。自分の見える範囲の情報を全てだと思わないよう、気を付けていたいと思う。このシャープで時折鋭すぎるカテゴライズ社会の中で、令和の人類として適応して暮らしていくのだ。
では最後に、
※以上は一主婦である筆者いくらの「カテゴライズ」に関する現状の考えであって、世間の正解ではありません
と、注釈をつけておくことにしようかな……(ビビり)。