伴侶なし、恋人なし、想い人なし。そんな私に、愛という言葉はあまりにも眩しく、直視し難い。

まるで真夏日の太陽輝く海岸線か、一面銀化粧に煌めくゲレンデか。くそ、どっちも陽キャスポットじゃないか。陰気で天邪鬼、典型的陰キャな私への嫌がらせか。陽キャというのは本当に度し難い生き物で、自分の感覚が当たり前だと信じ、何事にも距離を詰めたがるところが厄介だ。……こういうところが、私の愛が足りない一面だとは思う。

疫病が流行しても、私は、大してダメージを受けていなかったりする

陰気で天邪鬼な私だが、実は……と、続けたい気持ちは、ある。だが本当に、何も続かないのだ!私ほどの年季が詰まった陰キャというのは、往々にして引き籠る。私の場合は精神的な話で、社会上は何も問題ない。しかしそれでも、だ。少々乱暴な発言になるが、近年流行りの疫病のせいでめちゃくちゃな世の中、経済活動やら医療現場の実状なんかを度外視していいのであれば、私のような人間の場合、大してダメージを受けていなかったりする。オンライン飲み会?独りで飲むから関わらないでくれ!ソーシャルディスタンス?近すぎる!という具合にだ。

最近は特に寒さが厳しくなり、物理的にも布団に籠りがちになる。朝は日の出が遅いせいで真っ暗。アラームが響く中、嫌々布団から鼻先をのぞかせると、冷えた空気が目の奥まで刺さる。目を開ける余裕もない。そうして私は、せめてもの抵抗で、エアコンのリモコンを握る。実はタイマー機能が壊れているのだ。暖房が効いてくる頃合いまで二度寝すると、ようやく起き出し、世の中の全てを恨みながら(特に現在の労働条件について)着替え、適当な朝食を摂ると、外へ出る。すると、どうだろう。案外人が歩いているんだな、これが。

みんなが愛を欲するのは、陰キャでも分かる。私もきっと、愛が欲しい

長い閑話休題から話を戻すと、こういう時、私は愛を感じる。
愛とはなんだとか、大仰な話にはしたくない。

愛は、時として物々しく、時として慎ましやかに語られる(と思う)。それだけ需要があるんだろう。漢字は色々あれど、「あい」という響きの名前は多いところから考えるに、それは、みんなが欲するもの。流石にそれは陰キャでも分かるし、私だって要らないとは言わない。ならば、それを身近に感じる方法はないのだろうか。だってみんなが欲しがっていたら需要が足りないし、供給ばかり考えていたら、疲れる。疲れた結果がきっと、私のような陰気で天邪鬼な引き籠りなのだ。私はきっと、愛が欲しい。

需要と供給を同時に満たすって、なかなか大変だ。奉仕という形で、供給側がそのまま需要側となる例もあるが、そういう難しいことは哲学者とか社会福祉が考えることで、ぱちぱちキーボードを打っている私の役割ではない。てかめんどくさ。
そう思った私は、「勝手に感じる」ことにした。

距離を変え、近くなることで、愛はそこにあるのかもしれない

寒空の下、手をポケットに突っ込みながら歩く。すると同じような人を見かけたりする。(ああ、わかる。寒いよね)心の中で、ちょっと呟く。
あまりにも眠いので、コンビニでコーヒーを買う。店員さんの「いってらっしゃい」やコーヒーの温かさに、ため息が漏れる。

そういう一々に、勝手に愛を感じることにした。するとどうだろう、なんだか親近感が湧くのだ。陰気な天邪鬼は、目から鱗がぼろぼろ落ちた。あれだけ意固地に引き篭もっていたくせに、どうやら案外、悪くない。いや、もしかしたら、みんな大なり小なり引き篭っていて、それらの距離が縮まることを、愛と呼ぶのかも。その距離を縮めるものは、同情したり、感謝したり、声をかけたり、手を繋いだりすること。押したり引いたりしながら距離を変え、結果的に近くなることで、愛はそこにあるのかもしれない。

なかなかいい仮説だと、思わず私は電車の中で頷いてしまった。足元の暖房が効きすぎなほど暖かい。それにしても隣に座る男性、足を開きすぎだ。この距離はいただけないぞ。イライラついでに、私は「愛」を検索してみた。

【愛】 そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持ち。

……どうやら、陽キャは認めないという雁字搦めな価値観から、変えたほうがよさそうだ。