私はひとりが好きだ。ひとりぼっち、ではない。
読書をしたり、絵を描いたり、文章を綴ったり…ひとりでできることって意外とたくさんある。
特に私が好きなのは、雑踏に紛れてひとりになることだ。すれ違う人それぞれに人生があって生活がある。誰も私のことを知らないし、私も彼らのことを知らない。たまたま乗り合わせた電車が一緒だったとか、お気に入りの喫茶店が同じだったとか、そんな小さな箱のなかで私たちはすれ違い、離れ、それぞれの道を行く。

他人と足並みを揃えるのは苦手だけど、置いてけぼりは怖い面倒くさい私

多数決によって物事決めることが多いのは、大勢いる方が正しいという認識と帰属意識が潜在しているからだろうか。他人と足並み合わせて生きていくことを推奨されがちな場所ではよく見る光景だ。でも、それが苦手な人もいる。つまり集団行動アレルギーの人。挙手してください…挙手が苦手なら心の中でこっそり手を挙げてください……大丈夫、私もそうだから。
そのアレルギーを持つ人の中にもいろんな人がいて、単純にひとりが好きな人もいれば、みんなと同じ事をするのが嫌な人、個性を認めて欲しい人、ぱっと見マジョリティに属しているように見せかけて内心は超個性派な人、他人が嫌いな人など、いろいろいると思う。ちなみに私は「大多数の中に紛れていることで安心できるけれど、本当はひとりの時間を大事にしたいし、かといって個性なんてないし、置いてけぼりにされるのは怖いから結局みんなと一緒にいることにしたけれど、なんかちょっと息苦しいなぁ」という我が儘人間だ。超面倒くさい。ごめんなさい。

雑踏に紛れることは、大多数に属しながらひとりの時間を感じられる

ところで、最初に「雑踏に紛れてひとりになることが好きだ」と言った。これは先程の私という人間の説明と辻褄が合うのだ。つまり、雑踏に紛れることで大多数の中に属しながらも、誰かと一緒にいるのではなく自分ひとりでいることでひとりの時間を大事にし、置いてけぼりにされるのは怖いから人がたくさんいる場所へ赴き、その中で個性を探す旅を続けているのだ。
これを実現するには自分一人の力だけではなく他人の力が必要である。物語を進めていくためには主人公が必要で、それを支えるサブキャラやモブキャラが世界観を守っている。仮に自分を物語の主人公だとしたとき、数多の人々に間接的に支えられることによって、私ははじめてひとりを満喫することができるのだ。

集団の中のひとりを実感すると、自然と内面に意識が向かう大切な時間

読書や創作はつい孤独になりがちで、ひとりぼっちが苦手な私はすぐに寂しくて辛くなってしまう。もちろん、それらのひとりの時間も十分楽しめるけれど、ずっとそのままひとりで居続けるのは辛いのだ。行き詰まったときはあえて人の多い場所に行く。そうすることで、「集団の中のひとり」であることを実感するのである。すると自然に内面に意識が向いて、昨日までの反省や考えがまとまったり、知らない自分に出逢えたりする。最終的に、ひとりになる前よりも確実に自分のことを理解することができているのだ。それに気付く瞬間、私のそれは家に着いて鍵を閉め一息吐いた瞬間なのだが、不思議と満足するのである。

私は自分を大切にするために、ひとりになる。
大多数のうちのひとりになって、今日も東京のどこかを歩いている。あなたとすれ違って、あなたは私の物語の一員に、私もあなたの物語の一員にさせていただけるかもしれない。
そんな出逢いのような、出逢いじゃないような毎日って、なんだかとっても素敵だと思うのだ。