あわよくば、1920年代の東京を闊歩していたかった。

たとえば、喫茶店の窓際の席。夕方の風を頬で感じながらコーヒーでもしばき、キセル片手に空想にふけること。あるいは、フランソワ・コティの香水。ワンピースに紋付羽織を合わせた和洋折衷のファッションに最後の飾りを添えて、銀座通りを歩くこと。

そう、わたしは「モダンガール」──そんなふうに、どこかハイカラな風をふかすことのできる称号は、「自分が何者かである」ことの輪郭を、かなり明確にしてくれる。

2020年の東京を生きるわたしにそんな称号、あるはずもないのだけれど。

自分が何者なのか表現したくてモダンガールファッションに身を包む

だからわたしは、いつも古着屋へ繰り出して、「モダンガール」が着ていそうなワンピースを探す。
高円寺で見つけた深いボルドーの膝丈のワンピースが、クローゼットのなかでのいちばんのお気に入りだ。ストラップ付きのラウンドヒールは、顎下でくるんとカールした揺れるショートボブとおそろいの、つやめく濡羽色。仕上げの挿し色におおきなイヤリングのゴールドを合わせたら、2020年の東京にいたって、わたしは「モダンガール」になることができる。

テーマのあるファッションに身を包み、化粧もヘアスタイルも、一切妥協しない。大多数の人が「こういう女の子がタイプ」と指をさす、街角のスナップ写真の四角のなかではにかんでいるようなスタイルとは、文字通り、180度真逆だ。

そんなふうに容姿を整えるわたしに、しばしば人は言う。

「自分のことが好きじゃないと、無理だよね」「そのファッションで外に出る自信、わたしにはない」「正直、自分の容姿、すごい好きだよね」

けれど言いたい。

わたしにとって「モダンガール」としての容姿とは、「自分が何者かである」という藁に、ファッションを通してすがるための手段だ。「容姿は最も外側の内面」であるのならば、ファッションを通して自分が「中身のある人間」であることをアピールしなくてはならないのだから。

鋭い凶器のように「何者でもない」わたしを切り裂くスーツや制服

リクルートスーツも高校の制服も、大嫌いだった。
黒いひっつめ髪に白いシャツ、鞄も上着もみんなみんな一緒。容姿を均一化して周りに溶け込むように強要するリクルートスーツも制服も、「自分は何者でもない」存在であるということを真正面から突きつけてくる、鋭利すぎる凶器だった。

わたしは、中身がすっからかんだ。

足は遅いし数学はできないし、給食はいつも最後まで食べていた。
みんなが当たり前にできることを当たり前にこなすことのできないわたしは、人よりも頑張らないとひとりの人として認めてもらえるわけがない。

すっからかんだから、人の顔色を伺って、消極的な意味で空気を読むことしかできないけれど、だからこそすっからかんなのかもしれない。どちらにせよすっからかんなわたしが組織でリーダーシップを発揮するなんてできるはずもない。うまくできないのは一対一の関係でも同じで、好きな人と付き合えば、顔色を読みすぎて「疲れる」と突き放されてしまう。

みんなが当たり前にできていることをすることすらできないわたしに、いいところなんてひとつもあるはずがない。

だから他人よりもいい部分なんてどうやってもアピールできるはずがないのに、まわりと足並み揃えて「没個性」であることを強要して、人を「ただの人」としての記号に落とし込むリクルートスーツや制服を着なければならないなんて。

私の個性を描くモダンガール。今日も私は容姿をデコレーションする

「容姿は最も外側の内面」であるなら、わたしはわたしの容姿を精一杯デコレーションしてきらきらに飾り付けてはじめて、自分以外の全員が当たり前にやっているように、「自分が何者かである」という自信を持つことができるのである。

「その服を着られる自信、わたしにはないわ」

しかしそう言ってもらえているうちは、わたしの勝ちなのである。少なくとも、わたしが「中身がすっからかん」であることを隠すために、容姿を懸命にデコレーションしていることは、きっとバレていないのだから。

「中身も潤沢である」と思ってもらうための装置としての、容姿なのである。

きょうもわたしはレトロなワンピースに身を包みながら、「モダンガール」の称号にすがる。シンプルな無地のTシャツにジーンズ、足もとはスニーカーで、2020年の東京を闊歩することのできる日を、夢に見ながら。