友達は何人いるのが普通なのだろう。親友は?幼馴染は?
私は、友達が少ない。親友と言えるほどの仲の良い人もいなければ、幼馴染とはいったいどんな条件の人を指すのか見当もつかない。友達は数人いるけれど、類は友を呼ぶのか、みんな私と同じように連絡不精で、一年に一度会うか会わないか怪しいところである。果たしてそれを友達と呼ぶのだろうかとさえ思えてくる。
ひとりぼっちが許されないあの頃に、もう二度と戻りたくない
学生の頃は、集団行動を余儀なくされるので、どうしてもいずれかのグループに属さなくてはならない雰囲気がある。私はそれがとても苦手だった。ひとりぼっちになっている私を、お情けでグループに混ぜてくれているように思えてならなくて、いつもどこか申し訳なさや居心地の悪さを感じていた。なぜ高等学校までの学校教育は、ひとりぼっちを許さないのだろうか。
もちろん友情を育むことは悪いことじゃない。特に思春期の青春は、その時にしか味わうことができない。多くの時間で学校と密接に関わっているし、殆どの日本人は同じような経験を持つ。
しかし私自身は、楽しい青春を味わった記憶が数少ない。楽しそうにしている学生を見て「あの頃に戻りたいな」と言う人がいるが、私は絶対に嫌だ。今から戻って繰り返したとしても、また同じような青春になるに違いない。従う意味があるのか疑いたくなる校則に縛られて、そこにいることへの違和感を覚えながら笑って誤魔化していたあの時期になんて、二度と戻りたくない。
「普通の青春」でなくても、私にとっては特別で大切な経験
私の学生時代の良い思い出といえば、たくさん本を読めたことだ。高校生の時、国語と英語の教科書に星野道夫さんの文章が載っていていたことで興味を持ち、図書館にある星野さんの本を全部読んだ。その年の夏休みの読書感想文の学内コンクールでは、その本で書いた感想文で最優秀賞を獲ることができた。賞を取ったことは嬉しかったが、それよりもこの本を読んでいる間は、つまらない日常の中で、遠く離れたアラスカの肌を刺すような冷たい空気を感じられることが喜びだった。これは、友達と遊ぶことよりも自分のやりたいことを優先した結果得られた、とても大切で特別な経験だった。
例えば煌びやかな世界にいる芸能人や偉業を成し遂げた有名人も、意外と「普通の」青春を過ごしていなかったりするかもしれない。人見知りが強すぎたり、周囲に馴染めなかったり。また一つの事を極めるには、孤独に、自分自身と戦いながら様々な困難を乗り越えなければいけないこともあるだろう。だったら、「普通の」青春なんてつまらないし、「ネタ」にならないのだ。
今、私がやりたいことは何?すべての経験が自分を作り上げている
もしいま、友達がいなくて孤独で寂しくて苦しい気持ちをしてる人は、一度自分の胸に尋ねてみてほしい。「今、私がやりたいことは何?」と。私は他人に左右されず、自分の声を聞いて自分に誠実にいたいと思う。自分だけの世界があって当たり前。自分だけの世界を表現してようやく、他者の理解を得ることができたりする。やがて自分の居場所を見つけることができれば、これまでたくさんの孤独や苦しみを感じた分、喜びと幸福をたくさん感じられるはずだ。
私はまだ、自分の居場所を見つけられずにいる。大学院生として勉強に追われるなかで、毎日自分自身と戦っている。時々あまりにも孤独で堪らなくなる日があるけれど、忙しくて時間がないから誰かと予定を入れるのも面倒で、仕方なく一人で甘い飲み物を飲みながらゆっくり山でも眺めている。それも私の特別な、私だけの経験だ。
全ての経験が今の自分を作り上げ、そして将来へ導いてくれる。だからどんなに悲しくて悔しい気持ちになっても、絶望せずに今の自分を許してあげてほしい。その経験は確実にあなたの人生における大切な一つの「ネタ」になる。さあ、明日も元気にネタ探しをしようではないか。