「わかるー」共感してもらえるように聞こえるこの言葉。人に共感してもらえるのは喜ぶべきことであると思うが、時としてこの共感は人を苦しめることさえあると私は思う。
病気でうまく学校に通えず、保健室横の教室にいることは誰も知らなかった
高校3年生の秋、大学受験を控えた私は病気のため学校にうまく通えなくなった。
「みんなと勉強をしたい。だけど教室に入れない」
毎日教室へ向かうまでの道のりがとてつもなく長く感じた。やっとの思いで教室の近くまで向い、あとドアを開くだけという瞬間にチャイムがなる。私は迷うことなく急いで階段を降り、その場から立ち去ってしまうのであった。
この階段の上り下りを何度も何度も繰り返しているだけで、時間が過ぎてしまい自己嫌悪で涙が溢れてきた。
結局教室に入れなかった私は、保健室横の教室にポツンと置いてあった机と椅子の上に空のカバンを置いて、顔を伏せたまま嗚咽をもらして泣き続けるのであった。
しかし友人は私が保健室横の教室にいることは誰1人として知らなかったのだ。心配をかけたくなかったので毎日遅刻、もしくは欠席しているということにしていたからだ。
嘘の言い訳に「わかるー」と友人からの返信。声を出して泣き続けた
当時はまだガラケーだったので、夜になるとガラケーに友人からメールが届いた。
「○○また遅刻?」私は「寝坊しちゃった」「風邪ひいちゃった」といった内容の返信をした。私が毎日泣きながら教室近くまで向かっていること、嗚咽をもらして保健室横の教室で泣いていることを知らない友人からは「わかるー私も寝坊したわ!笑」とまた返信がくる。
優しさでメールをくれて、悪気のない返信だとは理解していたが、涙が溢れてきて画面の文字が見えなくなった。そっと画面を閉じた私は嗚咽ではなく声を出して泣き続けた。
簡単に「わかる」だなんていって欲しくなかった。本当は苦しくて悔しくて焦りでいっぱいの私の気持ちをほんの少しでもいいから聞いて欲しかったのだ。でも私にはそれが出来なかった。
ガラケーについたストラップを触りながら、自分の気持ちを1人で落ち着かせるしか方法が分からなかった。
共感のはずだった言葉が、相手を苦しめてしまうこともある
「わかる」共感してもらえて嬉しいはずの言葉が私の胸をギュッと苦しめた。
私はこの共感のはずの「わかる」という言葉は時として相手を苦しめることさえあると思うようになった。
私は自ら友人に相談することはほとんどないが、友人から相談されることは不思議と多い。
私は友人の相談に対して簡単に「わかる」とは言わないようにしている。人の悩みや苦しみは経験した本人にしかハッキリとは分からないと思うし、他人が聞いて全てを「わかる」ことなんてないと思っているからだ。
本当に苦しみ辛い時は「ただ傾聴して欲しい」その思いでいっぱいだと私は思う。
高校3年生の頃の私が誰かに話をただ聞いて欲しかった、簡単に全てを「わかる」だなんて言って欲しくなかった。
この苦しかった過去があるからこそ、得ることが出来た感情もあるのだと私は今となっては思う。
「わかる」たった3文字のこの言葉はとても重みがある言葉のように私は思う。