「それをやって何の意味があるの」

痛烈な質問だ。
無垢な子どもに言葉通り問われているならまだしも、大人同士なら「そんな意味のないことやめなさいよ」の裏メッセージが真意である場合が多い。
語調にもよるが上司が使えばややコンプライアンスを意識したけん制、友達ならば相手をけ落すマウンティングか世話焼きタイプの愛のムチだったりするのでしょうか。

「それをやって何の意味があるの」。そこに潜む「無意味」を考えた

言葉の裏を読もうと素直さに欠けるこの私、無意味の「意味」について時間と頭を使うことは悲しいかないくらでもできてしまうのである。

せっかくなのでこの場を借りて、一見生産性のないことを正当化してもよろしいか。

第一に、うまくいけば発明家になれる。大きく出ればアメリカン・ドリーム。
前人未到の地なのですもの、そこで道を作るも先導するもパイオニア当の本人なら可能だ。ガラクタから見つけ出したダイヤモンドを世に知らしめるなんて夢がある。
すでに価値が認められているものは、よくて平行線、最悪下り坂を転落する運命。
運よく序盤で参戦できたとしても、どんなに頑張ったってその旨味を独り占めすることはできないのです。追っ手は後から後からどんどん増えていく。ならばいっそ誰も踏み込めない領域で第一人者に。

ウォルト・ディズニーが夢のテーマパークを実現する過程で何度も破産したことは私でも知っているが、彼の志は世界中に広まり、今に引き継がれる。時代を超えてもなおその求心力は衰えることがない。不屈の精神に倣うのはややハードルが高そうなものの、やり遂げるためにはそれくらいの覚悟が必要なようなのよ。

むだと言われることに時間を割き、少数派の視点を持ち続けるのは?

第二に、逆説的ではございますが、言われたことだけをこなし続けると、慣れの時短と引き換えに考える機能が落ちてしまう。頭を使わず手先にとらわれると、全体像ひいては未来を見通すことが難しくなる。
そこであえて自分がキワモノとなるのです。真っ当から逸れるものを簡単に切り捨てず、意味をもたせる努力をする。
むだと言われることに時間を割き、少数派の視点を持ち続けるのはどうでしょう。

孤立を自分で選ぶことは、謙虚さを忘れないための最も簡単なやり方かもしれない。
もしも根っからの変わりものなだけで悪目立ちは望むところでないのと悲観するならば、いっそ割り切って自分だけの夢の国に居座り続けるのもありなんじゃない。
例えもし今の孤独が結果論だったとしても、自分自身で選んだならば最後まできっとやり遂げられるはず。

周りが気になっている時点で、比べてしまっていると認めて

手放しに分かってほしいなんて暴論じゃない。少なくとも私にはできません。
自分からまず歩み寄らなきゃ、何にも始まらないんでない。

常識人のあなた。
ぶってないで正直に、あなたの本音と向き合ってよ。何者でもないかもしれない不安や日々の不満を何かにぶつけたいだけだって。不満足なあなた自身を正当化するために他者を利用しているんだって。周りが気になっている時点で、あなたと私を比べてしまっていると認めてくださってよろしい。
それはそれだとしてほんの少し、愚直に生きようとする誰かの気持ちを思いやってくださるのも結構。

「何でそんなことやってるのか心配で聞いちゃった。お節介だから気にしないで」
「とんでもない。ありがとう」
この反論の裏メッセージを、良識あるあなたにこう読み取ってほしい。
「想像力足りてないね。ディズニーランドで遊んできたら?」