「久しぶり!」
このコメントから始まるLINEを受け取ると、少しだけ身構えるようになったのはいつからだろうか。しばらく連絡をとっていない友人からの突然のメッセージは、基本的に何かの報告だ。とりわけ多いのが、結婚。

「適齢期」になると、寂しさや取り残されたような気持ちが共存した

はじめて、友人から結婚の報告を受けたとき、湧き出た感情は、喜びや焦りより純粋な驚きだった。好きな人を見つけ、その人と一生一緒にいることを、20歳過ぎの若さで選択できるなんて、本当に素晴らしいと思った。憧れもあったし、感動さえした。

でも、20代半ばを超え、いわゆる「適齢期」に突入してくると、報告は単なる報告となった。表面上はその幸福を真っ白な気持ちで祝い、はしゃぎ、喜ぶ。ただ、そこに寂しい気持ちや取り残されたような気持ちが共存していた。その共存する気持ちを他人に悟られないように、自分にも気づかれないように、平然と「結婚は一つの選択に過ぎない」なんて物分かりのいいフリして、振舞う自分もちょっと滑稽で虚しくなる。

後ろめたさも、恥ずかしさも、悔しさも。裸足で駆け出したくなる

結婚が幸せのすべてではないことは頭ではわかっている。結婚すれば、自由な時間は減り、責任は増える。姑問題や離婚のリスクだってある。単なる日常の積み重ねで、そこにドラマやロマンは望めないことも多いと聞く。それは、よく理解しているつもりだ。

けれど、「結婚」していないことに後ろめたさを感じる。「結婚」していないことに引け目を感じる。そして、同時に「結婚」に憧れていることに恥ずかしさがあり、「結婚」は幸せの象徴だという固定概念に縛られている自分に悔しさもある。
アンビバレントな気持ちが絡まって、モヤモヤが渦巻いて、裸足で駆け出したくなるような衝動を、つくり笑顔で押さえ込むのも、だんだんと疲れてきた。

望ましい相手や時期は、ほかの誰かが決めるものじゃない

「いつ結婚するの?」なんて無神経に聞いてくる取引先のおじさんや「早く花嫁姿を見せないとね」と暗にプレッシャーをかける親戚の言葉が、心の梅雨に拍車をかける。

結婚の目的も、結婚に求めることも、結婚の捉え方も、人によって違う。ましてや、その相手や時期なんてものは、誰かに望ましいことを規定されるものではない。わたしは、わたしなりの「結婚」への向き合い方を見つけるし、わたしなりの「生き方」がある。

だから、今は放っておいてほしい。危うさもあるかもしれないけれど、見守っていてほしい。子どもっぽいかもしれないし、拗ねたり、悩んだりするけれど、黙っていてほしい。誰かを傷つけるようなことはしないから。