落ち続けたコロナ就活。それでも自分に期待する「ダサさ」に気付いた

怒涛の2020年が幕を閉じた。
2011年3月の東日本大震災のように「想定外」だからという理由で、今この地点にいる自分たちの手の届かないような次元から送り込まれた未来に対して、ネガティブな気持ちを抱くのはできるだけやめよう、どんな時代・時期が訪れても受け入れられる度量の大きさを保持しよう、と決めていたはずだった。
しかし、振り返ってみると、去年の自分には言葉の通りに毎日生きられた自信は全くない。
一昨年に大学3年だった私は、2019年の春から初夏へと季節が移り変わる頃に就職活動を始めた。自分が希望する企業に就職することがゴール。おそらく大半の就活生が多少の差こそあれ、似たような目標を掲げていたのではないかと推測する。
最終面接を突破し、内定をもらうにはどう行動したらよいかを逆算的に考え、無理をしながらも日々の多くの時間を捧げたコロナ就活。もちろん、その後2020年12月まで一年半もの長期戦になるとは予想だにしていなかった。そのせいもあってか、自分にとっては2020年は2019年と地続きだったという印象が強い。
当初は、明るく前向きに物事を捉え、面接などでコケたとしてもこちらと企業の相性が単に合わなかっただけだと極めて軽く受け止めようと心がけていた。事実それは自分の中で成功しており、落ちた企業や面接官の愚痴や自身の今後に対する不安を家族や知人に話し、自分勝手な鬱憤を他者に共有する行為は一種のデトックスにもなっていた。
しかし、月日が経過した2020年2月以降。
「就活のテンポ感」と「自身の前進しようとする歩幅・速度」が丁度重なり合ってきたところで、複数の企業から軒並み三次面接落ち(お祈りメールや封書)をくらうと、徐々に自分の信念や精神がブレていくのがはっきりと分かった。
なぜ面接官の質問に対してあの回答を行ったのか、もっと工夫の仕様はなかったのか。
準備不足? いや逆に準備しすぎていたのがウザがられた?
一体自分の何がいけなかったのか、見た目? キャラ? ノリ? 学歴? 言葉遣い? 振る舞いか?
オンライン面接だったからうまくアピールできなかった? でもそんなの理由にならないんだろう。
友人は次の選考に進んでいる。
時間は巻き戻せない。
親からも貶される。
もうどうしようもない。
全部全部自分のせいなんだ。
ん、だけど人格を疑うような大人がそこで働けているのは何故だ?
悔しい? やるせない? でもやっぱり自分はこの程度ってことなのか。
それなら何だか納得できちゃうな、変だな。
珍しく涙がこみ上げてくる。
誰にも言えないし言いたくもない。
これからどうしよう。
何だか目の周りに水風船が沢山くっついているみたいだ。
まるであの金魚みたいだ。
何だっけ?
あぁ、水泡眼とか頂天眼だ。
不器用な自分。
「コロナ禍なんだから、内定先があるだけいいよね」
「今年はどっかに滑り込めたら万々歳くらいに思ってた方がいいかも」
「就活ね、大分前のことに思えるな。もう転職とかセカンドキャリアのこと考えてるわ」
そんな周囲の言葉には説得力がある一方で、自分の胸の内には「唸り続ける何か」がまだ蠢いている。
何故なら下には下がいるけれど、上には上がいるからだ。
なんだかんだ言って、未だに自分自身に期待し続けている己を不格好だな、ダサいなと思ってしまう。
来年は今年よりも、とか。
来年こそ、というフレーズが枕詞として多用されてきた2021年。
去年にとっての「来年」は、既に今年になっている。
今年は、自分の力を過信することなく、周囲の人間と自分の心身を大切に。
そして巡り合った事象に対する「ろ過速度」を少しでも速く、安定的に、高い精度で行えるような独自のやり方を見つけ出す。
それでも自分をうまくコントロールできないような時が来たら、この拙い文章を見返して「そんな時代もあったね」と大いに泣き笑いしようと思う。
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