私とパートナーは、俗にいう国際カップルなので、普段の会話は、日本語と中国語で行われる(パートナーは台湾人である)。そんな私たちにとって最大の障害となるのは、言語の違いであろう。
気持ちを余すところなく伝え切りたいという、私の執念をそいでくれる
ところが、私にとって、パートナーである彼との対話は、いつも楽しく心地よいものだ。外国語でのコミュニケーションというのは不思議で、自分の意見や気持ちを余すところなく伝え切りたいという、限りなく不可能に近い私の執念(ともいえる願望)をそいでくれるのである。
自他ともに認める完璧主義な私は、話の意図をひとつも取りこぼすことなく相手へ伝えることを意識してきた。それは誰からも非難を受けたくなかったからだ。自己肯定感が低く視野の狭い私は、私の意見に対する批判を、自分の存在価値への否定だと捉えてきてしまった節があった。そしてそれによって傷つくことを必要以上に恐れていた。しかし、外国人の彼との対話のなかでは、思ったことや感じたことをありのまま伝えることは至難の業だ。そのために必要な語彙力と言葉の運用力が、お互いに圧倒的に不足しているので、少ない言葉のレパートリーのなかから、今の気持ちに一番近い単語を取り出してきて伝えざるをえない。
外国語を話すようになるまでは、いまよりもずっと繊細だった
そんなことを繰り返していたら、この感情にぴったり当てはまるような言葉を、その都度必死に考え抜くといった気力が湧かなくなってしまった。しまいには、大体の意図が伝わればいいとまで思えるようになった。そういう意味で、彼との会話は、よからぬことをあれこれ考える余裕がないので気楽なのだ。
外国語を話すようになるまでは、例えば友人関係がこじれたとき、自分のあの時のあの言葉が、相手を傷つけたり怒らせたりしたのではないかと、あることないこと考えを巡らせ、ひとりで落ち込み傷ついて自己嫌悪に陥った。いまよりもずっと繊細だった。そんなことなら黙っていたほうが楽だと悟ったのは小学校高学年。それから私は、イエスマンになった。どんな話をされても笑顔で黙ってうなずいてさえいれば、仲間外れにされ傷つくことはないだろうと願い(それでも傷つくことは山ほどあったが)、自己防衛のためのゆがんだ適応能力を知らぬ間に身につけてしまった。
一方彼は、適度な自己肯定感を持つ独創的な人だ。思ったことをありのまま、あっけらかんと話せるのである。この話をしたら相手にどう思われるかといった、心配ごとに頭を悩ませているようには到底みえない。けれども、人に自分の意見を一方的に押し付けるということもない。だから「適度」なのだ。ぶれない自分を温存しながらも相手の意見にも耳を傾ける。そして、互いの妥協点を見つけるために話し合いを重ねていく。
彼のスタンスは、適度に自分を愛せているからこそなせるわざ
彼のこうしたスタンスは、他者に依存することがなく、自己開示と他者理解のバランスがちょうどよい。たぶん無意識なのだろうけど、それがすんなりできているのだ。何と羨ましいことだろう。適度に自分を愛せているからこそなせるわざなのであって、その平衡感覚が少しでも乱れると、きっとこうはいかないはずである。かえって、私は生まれてこのかた、他者の評価を自身の価値として内面化してきたところがあるので、初めはその発想に驚かされたというか、ある意味救われたというか。
内気で繊細な私も、彼になら安心して自分をさらけ出すことができる。彼は率直に考えや感情を伝えてくれるし、社会通念や常識と言われるものに流されない、彼なりの正義を聞いていると、色んな意見があっていいのだから話してみてと、背中を押される感じがする。そして何よりも、ちょっと不自然な彼の日本語が好きだ。話すことが苦手な私を、言葉の固定概念から解放してくれるからだ。