どうか少し話を聞いて欲しい。
小学生の時、全ての本にいた"主人公"にはなれないと感じた
私は、物語の主人公には悲しいけれどなれない。
そんな当たり前のことを痛感したのは小学生の時。
初めてお小遣いで購入した漫画を読み、主人公のその余りの可愛らしさ、圧倒的存在感に、"私はこうなれない"と漠然と感じたあの違和感、20代半ばになった今でも覚えている。
ジャンル問わず、本は昔から大好きだった。
漫画も小説もエッセイも自伝も、興味のあるものから流行もの、沢山読み漁った。
誰かが創る主人公、誰かが自分を語るもの、全ての本に"主人公"はいた。
そして思った。小学生の時、"私はこうなれない"と感じた。
それは今でも。
とびきりの美少女でも無ければ、スポーツに特化したアスリートになれる才能も無いことは明白。突然お金持ちのイケメンに選ばれるような環境にも辿り着けなかった。
勿論、可愛くなる為に努力はした。高校生の頃はダイエットで14kgも落として、美容というものに興味が湧いてからは毎日何かしらのdoに取り組んでいる。勉強も嫌いじゃないし、走る事だって好き。絵を描く事も本を読む事も。ただそれは、"私はこうなれない"、だからせめて、という些細な諦めの元で成り立つ足掻きだったんじゃないかとも思う。
そんな感情が、大学2年の時に大きく音を立てて変化する。
"私はこうなれない"が、"私はこう有りたい"に変わった
20歳の頃、祖母が突然大病で倒れ、植物状態にも似た様になってしまった。
笑いかけてくれたあの瞬間はもう2度と無いし、祖母の作ったごはんを口にする事も無い。
"ねえ、おばあちゃん、今何を考えてる?"
開かない瞳を見る度に、問いかけていた。
そして思った。どんな人間にも必ず終わりはやってくるのだと。漫画や小説の中の人達は、紙の中で永遠に生き続ける事が出来るけど、私は、今を生きている皆はそんな事ない。
どれ程の人が、今生きているその人生がいつか必ず終わるときちんと感じているのだろう?
物心ついた頃からぼやぼやと明白に言葉に出来なかった想いは、祖母の件でより強い重みをもって、私に流れ込んできた。祖母のように自分が描く未来が突然無くなるかもしれない。感情はあるのに、身体というもので表現が出来なくなるかもしれない。
漫画の主人公を見て感じた、"私はこうなれない"が"私はこう有りたい"に変わった。
"これが最後かもしれない"と思えば、全てが尊くてたまらなくなる
そうして、目に見えるもの全て、話すひと全て、降りかかる全ての事象を、感情を、大切と想える私で有りたい、と思った。いつどうなるかも分からないなら、私という主人公を精一杯、描いていかなきゃならない。読んであげなきゃならない。
朝起きて仕事の支度をする時間すら愛しい。鏡を見てスキンケアしながら、今日も頑張ろうって口に出す。嫌な事があれば、どうして嫌なんだろう?と根本を探って、解決しなきゃって努力する。人と話す時はきちんと瞳を見て。
コーヒーを淹れる時は慈しむ様に、美味しくなってね、って想いを込めながらお湯を注ぐ。立ちのぼる湯気にすら。コーヒーのお供にアーモンドやチョコレートを用意する自分に酔いしれもする。空気の入れ替えの為に窓をほんの少し開けて、窓の外に広がる雪景色を見ながら、寒いけど澄んだ空気を身体の中に取り入れる。
生きてるって、不可思議で、なんかもうよくわからなくて、涙が出る事も時々あるけれど、心から尊くて愛しいと感じる。
"これが最後かもしれない"なんて、大袈裟だけど、心の奥底に置いていれば、全てのことが尊くてたまらなくなる。ぜんぶ丁寧にしたくなってしまうし、丁寧に出来なくても、それすら愛しく感じる。
あなたという主人公と話をする時も、そう。私は愛しいと思っている。
私という主人公の物語を、心から楽しんで、愛しく感じてあげよう
お姫様にはなれなかった。王子様も、最早いるのかすら疑ってしまう。
なりたい私にはまだまだなれていないし、最近は、なりたい私はきっと完成することなんて無いって考えるようになった。良い意味で。
毎日違う。日々淹れるコーヒーだって、マグカップやお豆が異なる事もあるし、ほぼ毎日するメイクだって。習慣としてる事だって、毎日きっと何かが違う。同じものもコトも1つも無いこの世界を、感じる私もこの世に1人だけで、その人生も1度きり。
病気にでもならない限り、あと80回程春を迎えれば終わる私の人生。
もう一度。
お姫様にはなれなかった。
だから、私という主人公の物語を、心から楽しんであげて、愛しく感じてあげよう。
愛情いっぱいで満たしてあげよう。そんなふうに、毎日生きている。
私のこの感性、ほんの少しでも、誰か分かってくれるだろうか?