一人暮らしの家の玄関に、私は自分の遺書を置いている。
白い封筒で家族に当てた手紙、お気に入りのキャラクターのイラストが描かれた封筒に入れた友達への手紙、そして自分の思いだけを綴った紙を束ねて下駄箱の上の真ん中へ目立つところに置いている。

友達と会うために外出した「祖父」に起きた悲しい事故

今年の7月に祖父が亡くなった。享年75歳だった。

去年の12月1日午前5時13分、父から電話があった。「おじいちゃん、友達と会うから、外出てたらしいんやけど、交通事故にあって病院に運ばれたわ」と父は震えた声で告げた。
私が病院へ駆けつけた時には、すでに命を繋げることはできても二度と意識が戻ることはなく、いわゆる延命処置のようなものになると医師から言われたそうだ。

「なんで寿命で死なせてやられへんの」と祖母のすすり泣きながら、途方もなく言った言葉が今も忘れられない。

祖父は、お洒落で穏やかな人だった。艶のある白髪を櫛で整え、パリッとした白いワイシャツに茶色のジャケットとそろいのスラックスをよく着ていた。口数は決して多くなかったが、いつも笑っていた。

事故から3日たっても、まだ祖父が事故にあった実感のなかった私がはじめて自覚したのは、祖父がよく好んで着ていたあの茶色のジャケットが、祖父の血であろう染みをたくさんつけて警察の人から返された時だった。

交通ルールを守っていた祖父が、なぜこんな目に遭わなければ

事故から半年後、祖父はなんとか一命を取り留めたが、病院の一室で眠り続けていた。

そんななかで始まったのが、交通事故の裁判である。祖父は、信号が青で横断歩道を渡っている時、道を曲がろうとした車に引かれた。

私には、どうしようもない憤りがあった。祖父は、元気でこの事故がなければまだ生きていた。なぜ、交通ルールを守って渡っていた祖父が、そんな目に遭わなければならない。

「本当に申し訳ありません。なんとお詫びしたらいいか思いつきませんが、本当に申し訳ありません」と、裁判が始まり出てきたのは、24歳の青年だった。自分の不注意で人をひいてしまったこと、遺族に申し訳ない気持ちでいたたまれないことを嗚咽まじりに語り、身体が折り曲がるのではないかと思うぐらいに私たちに深く頭を下げたのだ。

どこからか祖父が「もういいじゃないか」と言っているように感じた。昔から祖父は、いくら一大事でもそう言ってしまうような穏やかな人だった。

懲役2年、執行猶予4年の判決だった。

そして、その判決の数日後に祖父は亡くなった。火葬前に最後に見た祖父の顔は晴れやかで、そして相変わらず優しげな表情をして眠っていた。快晴の夏空のなか、祖父を私達遺族は見送ったのである。

いつ死んでも後悔がないよう、自分の思いが届くように「遺書」を書く

人はいつか死ぬ。遅かれ早かれ、それはきっと避けられぬことなのだけは確かで。そして、当たり前のことながら死ぬ人がいれば、もちろんそれを見送らねばならない人がいる。

私の遺書は、1年に1回は書き直そうと思う。いつ死んでも後悔がないように。いつ死んでも自分の思いが、何かしらの形で見送る人に届くように。祖父のことがあってから、私は日々を一つ一つ噛みしめながら生きている。