「28歳です」と年齢を告げると、会議室に集う大人たちは「ふーん」と気のないような反応を示して、その一瞬私に寄せた関心を再び会議の議題へと戻していく。万事元どおり。その中で私だけが、息が詰まったように苦しくなった。年齢を打ち明けて、居心地が悪くなったのは初めてだった。
年齢を言って何故か居心地の悪さを感じた日、昔のメモにハッとする
少し前まで、年齢が若いことが自分の幼さや稚拙さを際立たせるのではないかと、年齢を言うことが嫌だった。社会年齢が若いと知られれば舐められるし、年上に見えた方が特。年齢を重ねれば、いろんなことがもっとやりやすくなるだろうと思っていた。20代後半はちょうど良い年齢だった。まだまだ若いが、経験がないわけでもない、発展途中の冠をかぶったような年代。それなのに、今日はどうしてこんな居心地の悪さを感じるのか。
じんわりと嫌な気持ちを引きずって家に帰り、今日の出来事を日記に記そうとノートをパラパラめくっていると、大学の頃メモが出てきてハッとする。
“人生を測る術は、単に私たちがどれだけの時間をこの世界で過ごしたかではなく、私たちが限りある時間にいかにエネルギーを注いだかによる(意訳)”
ーTony Schwartz and Jim Loehr, The Power of Full Engagement
これまで、年齢という相対的なベンチマークに対して自分のパフォーマンスを図ってきた。「若い」のに「できる」、「若い」だから「しょうがない」というように。日中感じた居心地の悪さは、「28歳」というベンチマークに対して自分が劣っているように感じて、居心地が悪くなったのだ。「もう28歳なのね、でも、まあこの程度か」そんな風に思われているのではと怖くなり、萎縮してしまった。まさか、歳を重ねるごとに「年齢と釣り合う実力」という新たな不安のタネが生まれるとは…全くの盲点だった。
社会人になってから、生き方が省エネになり、環境に慣れた今も変わらず
自信のなさの原点を突き詰めれば、誰しもに平等に与えられた限りある時間のうち、「28年」という時間を私が最大限生ききったと思えていないことにあるように思う。正直、社会人になって生き方そのものが省エネになった自覚がある。勤め始めた頃は、慣れない通勤生活に、長時間の労働、プレッシャーと緊張感、体に蓄積されていくストレスと、これまで晒されたことのない環境にかなり参っていた。勤めを終えて家に帰るだけで、毎日疲れ果てる。疲弊する自分を守る術として、無意識のうちに、日々のささやかなことに割くエネルギーをセーブする癖がついた。
しかし、5年も働けば誰しも環境に慣れる。年次を増すごとに仕事のスケールと責任が増してきたことは確かだが、少しずつ余裕も生まれてきた。それでも、不要な疲労に対する用心は消えていない。疲れそう、消耗しそうと感じることをなんとなく避ける生き方が染み付いていた。大好きだったダンスを踊る時間が減り、休日も家で過ごすことが多くなり、新しい世界へ出かけるよりも、代わり映えがないけど安定した、居心地の良いことばかりを繰り返してきた。
こうやって生きていても、毎日は楽しい。ゆとりがあって心穏やかに過ごせる。穏やかな生き方を否定するつもりはないし、実際、働き始めた頃の私よりも今の私の方が雰囲気が良いといってくれる人もいる。でも、激動と波乱の中でエネルギーを絞り出すように生きている人を目の当たりにした時、自分の凡庸さやつまらなさ、生命の勢いのなさにたじろいでしまう。そんな自分を、どこかで恥じてしまう。
多少の痛手を負う覚悟で、激しく忙しく逞しく、感受性を爆発させたい
私は、「28歳」というものさしに対して気後れし、いまの自分に対して劣等感を抱いていることに気づいてしまった。時間は、年々加速しながら私たちの体を通り抜けていく。今の生き方にちょっとでも後ろめたさを感じるなら、それは私が求める生き方ではない。こんなところで、後悔と反省にくれている場合ではない。
新しい仮説が生まれた。おそらく、年齢を重ねるごとにプレッシャーは増えていく。これだけ生きた、これだけ経験した、その集大成としての私がこれである、というプレッシャー。単に年を重ねるだけでは、人生の厚みは伴わない。多少の痛手を負う覚悟でエネルギーを燃やして生きるから、重ねた経験の分だけその人が輝くのだ。「ボーっと生きてんじゃねーよ!」という某キャラクターの叱責の言葉を思い出す。今年は、保身という殻をすて、疲れることに腹をくくり、激しく忙しく逞しく、感受性を爆発させて日々を過ごしてみようと思う。年齢なんてものさしを超越するために。