もしかすると、私は美人の部類に入るのかもしれません。

なぜなら、難関といわれるアナウンサー試験の書類審査も通過したことがあるし(エントリーシートに指定されたカットの写真を何枚も貼るんです)、男性からの好意を感じたことも少なくないし、直接容姿を褒めてくれる人も何人もいたから。

褒められていた「容姿」も年齢を重ねるごとに少しずつ変化していく…

自信があるわけではないです。ふと鏡に映った自分がブス過ぎて、げんなりすることもあります。けれど「私って、状況によっては美人なのかもしれないなぁ」とも思える、生ぬるい人生を送ってきました。

私は容姿を褒められるのが好きです。

これまで付き合った恋人たちも「俺は目が大きい子が好き」「俺は背が高い子が好き」「俺は歯並びがいい子が好き」とか言っていて、私の見た目はそれらに当てはまっていました。

姿かたちを褒められることは、自分の存在そのものを丸ごと肯定されるようですごく嬉しかった。自分のことが好きじゃないから、自信がないからこそ、ビジュアルへの評価というのは単純明快で、私の心を軽くしてくれました。

世間でイケメンといわれるような格好いい恋人と、その隣でなるべくきちんと化粧をして腕を絡める自分を、――そう、若くてすてきな眩しい男女を――、俯瞰して楽しむ、愚かな娘でした。

そんなアホな若い女だった私も、そろそろ27歳になります。結婚して子どもも産みました。身体に、少しずつ変化が現れ始めました。

元々小さかった胸は、我が子への1年2カ月に及ぶ授乳を終えて、信じられないほどしぼみ、まるで少女のようにぺたんこになってしまいました。寝不足でもないのに頑固なクマが居座り、コンシーラーをのせて必死に隠す日々。何もしなくてもツルツルとみずみずしく自慢だった脚も、いまでは毛穴が目立ちます。「まだ20代なのになぁ……」せっせとボディクリームを塗り込みながら、ぼそりとひとり嘆く夜。

頭では理解している。でも、年齢を重ねてゆく「自分」を愛せない…

20代後半に差し掛かり、歳をとるのが怖くて仕方なくなりました。

できれば若いまま、少しでもきれいなままでいたい。
なぜなら私は、しわやシミが増え、身体がたるみ、容姿の衰えた自分を愛せる気がしないから。

“歳を重ねる”ということは、本来そういった身体の変化を伴うもので、それは極めて自然な姿なのでしょう。醜いことじゃない。頭では理解していながらも、年齢という数字が増えてゆく自分を無価値だと思ってしまうのは、きっとこれまでの人生で私が自分の容姿と若さに頼って生きてきたから。

まだ26歳だというのに、数年前の自分の写真を見て「いいなぁ若くて」と羨んでいる私が、心から気持ち悪く、可哀想で、そして何より心配です。

人から容姿を褒められることだけをよりどころにしていたら、老いたあと、どうやって生きてゆくつもりなの?

街ゆく若くてきれいな女の子たちに対して嫉妬の黒い感情を渦巻かせ、鏡の中の自分を見つめながら「私だって若いころはきれいだったのに……」とぼやく、白雪姫の継母みたいになるの?

容姿と若さに胡坐をかいていた自分に「さようなら」

このままではいけない。

人様から「かわいい」「きれい」といった類の甘いお言葉を頂戴することでしか、自身の存在を肯定してあげられなかった自分が情けない。そんな風に生きてきてしまったから、27歳を迎える日を目前に恐怖を感じているのでしょう。

過去も、現在も、未来も、肯定してあげよう。他でもない私自身が。

私がどんな容姿だったとしても、私の家族は私を愛してくれるに違いないよ。かつての恋人たちは、きっと私の見た目だけではなくて、豪快に笑うところやお喋りなところもひっくるめて好きでいてくれたのだと思うよ。

平日の公園で幼い我が子を追いかける、すっぴんにTシャツとジーパン姿の私は、美しくないかもしれないけれど、よく頑張っているよ。えらいよ。

27歳になっても、30歳になっても、50歳になっても、おばさんといわれるようになっても、大丈夫。家族がいて、友だちがいて、一緒に仕事してくれる人がいます。インターネットの世界にだって、私の中身を見てくれる人たちがいっぱいいます。

知識を蓄え経験を積み成熟した人間になろうとするのも、まだまだ手遅れではないはずです。容姿と若さに胡坐をかいていた自分に、潔くお別れを言います。
もう大丈夫だよ、さようなら。