めっちゃ働きたい。
お金が欲しい、とは違う。
そりゃお金は欲しいのだけれど、わたしは自分で働いてお金を稼ぎたいのだ。
こんなことを考えるようになるなんて、ほんの数ヶ月前までは思いもしていなかった。
学生時代のアルバイト先にはどこにもパワハラ社員がいて、「いつでも辞められる」と思うことでなんとか働いていた。
興味のある業界はあったけれど、働くことで叶えたい夢なんて全くなくて、そんな気持ちで望んだ就活は大失敗。仕方なく就職したけれど、人間関係のゴタゴタはともかく、仕事内容が今後40年近くもずっと変わらないことと、“目指していた自分”からどんどん遠ざかっていくことに絶望しかなかった。人生で初めて心療内科のお世話になって、薬で体の震えを止めながら出勤していた。
働くことは苦痛でしかなかった。
働きながら、毎日死にたくて仕方なかった。
なってみてわかった。無職も意外にお金がかかる
働きたいと考えるようになったのは、昨年の初秋、無職になったことがきっかけだ。
コロナ禍真っ最中での自己都合退職。中途採用は新卒と違い、応募者のスタートラインが一律ではない。わたしには大した実務経験もないうえ、通説として、完全未経験の転職はコロナでなくても厳しい。当然のように、わたしはまだ定職についていない。
さらになってみてわかったが、無職も意外にお金がかかる。税金・公共料金、携帯料金、そして実家の間借り料。これで少なく見積もって、月割りで約7万。何もしていなくても、かかるお金がこれだけあるのだ。
そして就活となると、対面面接1回にかかる交通費が3000円から3万円。無職になってから今までに使ったお金のことは考えたくない。何をするにも「お金がない」としか考えられなくなった。可処分所得が減るということは、嫌でも生活が変わるということ。
これまでの人生のなかで、今が一番お金を欲しがっていると思う。
今働きたいのは、お金が欲しいからだけじゃない
この出費ばかりの状況をなんとかしたくて、昨年末に就活のかたわら短期アルバイトに出た。業務内容にはなんの興味もなくて、志望理由はただ「お金のため」だけ。短期だったら採用のハードルも低そう、との下心もあった。それでも、ありがたいことにその場でシフトが決定。バイトとはいえ、随分久しぶりの"採用連絡"は嬉しかった。
そして久しぶりの労働。固定費も賄いきれない額ではあったが、収入が少しでもできた安心感があった。
でも、そこで得られたものは収入だけではなかった。同僚とは「短期」の気安さからか、就活や家族との関係などの個人的なことまで話せた。社員の人も高圧的な人なんて1人もいなくて、そのうえ「来てくれて本当に助かった」とまで言ってくれた。アルバイト先の人たちと関わることで、自分でも社会に役立てること、必要としてくれる人がいることを感じられた。家でパソコンと向き合うだけでは得られない感覚だった。
初めて気づいた。わたしは、働くことで自己肯定感を得ていたのだ。
このとき、ようやく「自ら働いて、収入を得る」ことの意味を知った気がした。
毎日、お金のなさが骨身に染みる。でも、今のわたしが働きたいのは「お金のなさ」を解消したいからだけじゃない。
働いて社会と関わることで、自分が必要とされていること、自分を必要としてくれる人がいることを実感したいのだ。
この戦いはいつまで続くかわからないけど、まだもうちょっと頑張りたい
想像以上につらい無職生活だが、それでも、前の仕事は退職して良かったと思うことのほうが多い。その一番の理由が、以前は毎日考えていた「死にたい」という気持ちがどんどん小さくなったことだ。しんどさとしての数値は今も変わらないと感じるけれど、“目指していた自分”として働くことに向け、少しでももがけている今のほうが、不思議なことによっぽど「生きること」、そして「働くこと」への希望がある。
新型コロナウイルスは近日また猛威をふるっていて、わたしのこの戦いもいつまで続くかわからない。家族には毎日無職をなじられる。ネットを見ると、学歴もキャリアもピッカピカの同年代ばかり目について、無意識に比べてしまって、自分に吐き気がする。正直めっちゃつらい。
でも、まだもうちょっと頑張りたい。
今年中に、何としても初めての“納得できる仕事”を掴み取りたい。そのために就活はもちろん、資格や養成講座も、今回のようなコンテストへの応募も、思いつく限りのことはすべて後悔なくやり切る。無駄にするような立派なキャリアもないわたしは、失うものも何もない。だから何にでもなれる。
この文章はわたしの宣言であり、自己暗示だ。
大丈夫、きっとうまくいく。今日も自分に言い聞かせていく。