夢を追いかけるうちに、いつの間にか、長い長い穴に落ちていた。しばらくの間、上も下も分からない暗闇を浮遊する。ふと前方に光が差していることに気づいた。

焦って縺れる足に躓かないように、慎重に駆け寄ったその先には、しかし屈強な鉄格子が嵌められていた。

そこで悟った。私はいま、檻の中にいるのだと。

ブッラク企業、体調悪化、そして休職。焦燥感の檻の中

新卒で入社した会社は、俗に言うブラック企業というやつだった。同期や上司がデスゲームから一抜けしていく様を羨望の眼差しで見つめながら、私が「うつ病診断書」の退場切符をもらったのは、入社からおよそ3年後だった。

退職してから1年間は、通院しながらの療養生活。夜中に過去のアレコレを思い出しては枕を濡らし、働き盛りの同世代の姿を横目に焦燥感に駆られる日々を過ごした。そうして迎えた人生2度目の就職活動は、「うつ経歴者」としての、世間の目との闘いだった。

あまり無理をしないように、残業なしで土日もしっかり休めて、できれば公務員で…と、ちゃっかり自分の希望を押し付けようとする母。主治医とも相談をして、あまりプレッシャーにならないように、嫌になったらすぐに辞められるようにと、契約社員での求人を探した。転職エージェントにアドバイスをもらいつつ、履歴書を埋めていく。

いや、埋まらなかった。休職して療養していた1年間。そこに書くべき言葉が、見つからない。備考欄に「体調を崩していたため療養」と書かされる。30社くらい書類選考に出して、通過したのはわずか2社。面接で質問されることは粗方決まっていて、志望動機、自己PR、履歴書の空白について、だ。

転職活動を開始して初めて病気について聞かれたときは、喉の奥に異物でも詰まっているかのように答えに窮した。「なぜ初対面のあんたに、そんなこと説明しないといけなんだよ」と思っていた。気遣うように「無理に言わなくても良いんだよ」と、さも優し気に声をかけてくれる人もいたけれど、無理にでも何か言わないと次はないのだと、私は知っていた。

正直、履歴書の空欄を突かれる度に、ひどく馬鹿にされている気分だった。私がうつだから、馬鹿にしているんでしょ!と憤った。どうしようもなく惨めで、悔しくなった。あなた達は、たまたま運が良かっただけの癖に!偉そうにしやがって!と。このバカバカしい問いに答えずして、もしくは法螺を吹くことで真実から回避することはできないものかと、本気でエージェントに相談したことがある。そうしたら「あなたの今の状況が分からないと、会社側も雇うかどうか決められないよ」と、いたって当たり前のことを返された。

みんなが、私の頭がおかしくなったと思っている。うつ病になった言い訳みたいに前職での実績を語るのも、いい加減疲れた。その日は全身の倦怠感と、いつからかずっと感じていた息苦しさを、開放するように眠りについた。どんな夢を見ていたのだろう、もう覚えていない。

それからしばらく、窓から射す朝日に、絶望した。

鉄格子を開ける鍵は

私はいま、日本のインフラを担う、割と大手の会社で契約社員として働いている。
面接をしてくれたのは、配属先の直属の上司。もちろん、この会社の面接でも例によって同じ質問をされた。されて、「じゃあ、今後仕事をしていく上で、何を意識しますか?」と問われた。

欲しいのは憐れみの目ではなかった。「仕事」という、成果主義の世界に身を置くことで、何とかして自分の価値を見出したかった。認められたくて、頼りにされたくて、そのために必死に足掻いてきた。

私がうつ病になって最も良かったと感じたことは、自分の限界値を知れたことである。だから面接官の問いには「無理をしないこと」と返した。その時私が出せる、最善の答えだった。

気付くのに大分時間がかかってしまった。檻の外から私を見張っていのは、世間の目なんかじゃなかったのだ。看守は、私自身だった。「うつ経歴者」という劣等感を檻に閉じ込めて、「ふつうじゃない自分」に鉄格子を嵌めて、ソイツが蠢く様を冷ややかに眺めていたのだ。無理をしなければ、「ふつう」じゃないことへの償いをしなければ、仲間には入れてもらえないのだと、信じてやまなかった。

鉄格子を開ける鍵は、自分自身が持っている。開けるも開けないも、自分次第だ。